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お昼ごはんと格差社会(1/3)

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僕は毎日お昼ごはんを食べる。
でも、僕はお昼ご飯を食べたいから食べているのか
お昼になったから、お昼を食べているのかわからなくなることがある。

自分の内側の純粋な欲求なのか、
お昼だからという外的な理由に突き動かされているだけなのか。。。

人は大抵、自分の行動に意識的ではない。
慣性、見得、常識、立場、道徳・・・ほとんど真意とは無関係なものによって
およそ全ての行動は非意識的に動機付けられている。

もし、自分の行動に常に自覚的であれれば
自分の真意を知るために、動機を自分の外に求める事がなくなれば
無意味な基準を他人との比較に求めることもない。
裕福さや貧しさは自分外との比較が生み出す幻だ。

格差ってなんだろう?裕福ってなんだろう?
格差とは、自己の内なる価値観の放棄が生む狂気。
本心が欲する行動に充分な要素があればそれが裕福なのだ。
裕福であるために豪邸を建てるのか?
豪邸を建てたから裕福なのか?
僕らの価値観はいったいどこにあるの?

豪邸が豪邸である所以はただ豪邸であることだ。
裕福とはただ裕福であることだ。

なんて、思う。

なんで、こんな文章をいきなり書いたかと言うとですねぇ。格差社会について書きたかったんです。でも、格差社会の問題は、社会そのものというよりもまず大前提に個人個人の意識に変革が必要じゃないかと強く思うわけです。自分はどうありたいと願っているんだろう?それは、なぜ?更に、なぜ?を繰り返すと、自分でも分けがわからなくなる。結局は、自分の外にある「一律の基準」っていう幻に普遍の答えを求めてしまう。人生の主体が己の真意ではなく、外的要因によって決定されている。昼飯を食べる行動ひとつをとっても僕らの生活は実に慣習化されていて、自分の意識からほど遠いところで人生が動いている。これが大きな無駄を生んでいることを自覚する必要があるんじゃないかと思うんです。資源の浪費、意識の浪費、行動の浪費。あらゆる意味で浪費が生まれる。裕福さを考えるとき、格差のあり方を語るのは不毛だと思う。唯一絶対の答えをもとめるなら、個人の意識に自覚的であることじゃないかと思うんですね。

ただ、これを個々人の問題だ!と片付けてしまうのじゃぁ、しょうもないから。その上で、より自由に生きられる社会(第二回)。また、経済(第三回)について思い付きをメモしておきたいと思います。

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Category: | Date:2007/09/07


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