ナオタロス
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生きてることが辛いなら
(作詞:御徒町凧/作曲:森山直太朗)
生きてることが辛いなら
いっそ小さく死ねばいい
恋人と親は悲しむが
三日と経てば元通り
気が付きゃみんな年取って
同じとこに行くのだから
<略>
生きてることが辛いなら
悲しみをとくと見るがいい
悲しみはいつか一片の
お花みたいに咲くという
そっと伸ばした両の手で
摘み取るんじゃなく守るといい
<略>
生きてることが辛いなら
嫌になるまで生きるがいい
歴史は小さなブランコで
宇宙は小さな水飲み場
生きてることが辛いなら
くたばる喜びとっておけ
すごいはしょったwww
ほんとは、みんなに全文読んでほしーんだけど、、、
やっぱ歌詞全文のせっちゃまずい??のかな?(全文見たい方はこちら)
いっそ死んでしまえばいい
直太朗さん、なんだか歌詞がすごい話題になっちゃってますね。。。ずいぶん踏み込んだものね。おいらはいい曲だと思うけどなぁ。問題は冒頭の出だしの歌詞?いっそ死んでしまえばいい、どうせ3日たったら元通り。 ってところかな。
この詩に賛否両論あるっていうからさ、どんな意見があるのかと思って、ネット上の書き込みを数百件ほどぱらぱらと見てみた。なんか賛成派、反対派でドンパチやってはいるけれど、どちらの言い分も、僕の予想に反して生に対して前向きなものばかりだった。なんとなーく、よくよく分析してみると賛否両論はそれぞれの立場の違いからくるだけなのかなって思った。自殺されてしまう立場で詩を聞いた人は、あなたが死んだときに3日で忘れてしまうなんて、そんなこと絶対ないんだから!3 日で元通りとか死ねばいいなんて絶対言わないで!って言う。自分が少しでも死にたい。。と考えている人にとっては、あたりまえの死を選ぶよりも悲しみを花に変えて楽しみを取っておけ!っていう力強くやさしい言葉に心を打たれている。結局のところ生に対してはみんな前向きな意見を持っている点ではどちらの意見も一致している。ちょっと意外だったけど、みんな優しいんだなーなんて、感じた。
もちょっと加筆…
記事はここまでだったんですが、これだけだとZeROっぽくないので。。。勝手に死についての私の意見をつらつらと。。。また、メンドクセな話なので、興味のある方のみ読み進んでください。。。
僕らは何で生きてんだろう
これ絶対一度は考えますよね?僕は人生の目的は、自己の最高の姿を表現することなんじゃないかなーって思うんです。言い換えれば、自身が幸せであること。(ん?なんかよくわからん?^^;;)自己の最高の幸せは、他人にとっても幸せの均衡が最大になる状態だと思うから。みなさんは、どんな答えを持っているんだろう?ちょっと気になるけど。。。話を進めてみる~!幸せであるためには、ただ幸せであればいい。だから本当は、幸せになるために苦労する必要もないし、努力したり耐え忍んで何かを掴み取る必要もない。ところが我々人間って愛くるしく未熟で、ただ幸せであることが理解できない。だから、苦しみを通して慈しみを知ろうとする。影が漆黒であればあるほど、差し込む光はまばゆく輝いていることがわかるもの。もともとそこには常に光はあったし、今も幸せはまぶしく降り注いでいる。そこを思い出すために我々は自ら影を生み出している。苦しむことが美徳だという考えは間違ってはいないけれど正しくもない。苦しみが幸せを生むのではなく、苦しみは我々の無知が生んだ幸せの副産物なんじゃないかしら。。。苦しみは僕らに与えられた自由の象徴。。。もし、世の中から全ての悲しみが綺麗に消えてしまったら、愛くるしく未熟な僕らはそこに幸せがあることに気づくことができるだろうか。。。苦しむ自由が与えられたからこそ生は甘美なのかもしれない。
人生にゴールなんてない
人生には目的はあってもゴール(目的地)はない。
自分に降り注ぐ幸せをただ知ることができればいい。善悪とかいう観念は文明が作り出した幻。。。世界には「事象」しかない。だから、別に死にたければ死ねばいい。そこには何の制約もないし悪もない。それが悪いことだなんて、いったい誰が決めたんだろう?ただ、現世の苦しみを消すために死を選ぶのなら、それはきっと遠回りになるだろう。いや、それもたいした問題じゃない。遠回りしたければ、遠回りすればよいんだから。ただ、苦しみを一刻も早く摘み取ることが望みならもっと近道がある。
他殺であれ、自殺であれ、そこにはあまり大きな違いはない。何かに危害を加え傷つけ破壊することは、その対象が他人であれ、自身であれ、同じ苦しみを生む。善悪の話はここでは問題にしない。問題は自分の望みはなにか?ってことだもの。コンビニに行くのになにも最短距離をいく必要はない。たまには、のんびり散歩したっていい。クラスの気になるあの子に会えるかもしれない!遠回りしたければすればいい。いや、遠回りなんてないのかもしれない。。。ゴールは常にここにあるんだから。摘み取ることはない、ただじっと見守ってみるといい。
己の中に観る他者
悲しみを消したければ、とくと観るがいい
他人は自分を定義する。自分がいなければ他人はおらず。また他人がいなければ自分はいない。そのどちらもが、自己を定義さしめている。自他とは、意識を共有しない水のみ場。同じブランコの両端だ。殺すも殺されるも、死ぬも死なれるも、そこには自己を決定する「事象」以外のなにものもない。悲しみを消すために、新たな悲しみを生む必要はない。悲しみは、自他との間に起こる「事象」を判断してしまう己から生まれている。過去、現在、未来の動かしがたい事柄にもがくのでなく、タダじっとその悲しみを観るとき初めて悲しみはただの事象として幸せの中に溶けてゆく。
己の中に常にある幸せ
生きていることが辛いなら、いっそ小さく死ねばいい。。。
あなたが何を選ぼうと、望む幸せは常にここにある。
後記
ナオナオタロス
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Category:哲うこと |
Date:2008/08/01