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未来のカタチ・・・(生活習慣)

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社会のあり方という趣向からちょっと外れます。個人の生活習慣について書こうと思ってます。大学受験に始まり、現代社会には知性こそが人間の最高徳であるといわんばかりの仕組みがたくさんある。知性を育成し評価する仕組みは、受験にしろ就職にしろ仕事の上での評価にしろ趣味趣向においても根強く残ってる。ところが、世の中をみると必ずしも知力の高い人が社会で成功しているか?というと、そうでもない。人生に満足をしているか?というと、これまたそうでもない。こんなに教育が行き届き広い知識や高い教養を持った人たちがあふれる社会でありながらも、悲惨な事件や不幸な境遇は未だになくならない。むしろ増え続ける自殺者の数をみても生活を憂いている人の数は年々増えているのではないか・・・と思わずにはいられない。

僕らがもっと幸せに生活するためには、どうしたらいいのだろう。

楽しさは人を健康にする


30分間笑い続けるだけでも血糖値が下がるほど笑いは体にとてもよい効果をもたらすそうです。最も単純で、最も効果的な感情のコントロールは笑うことかもしれない。脳医学的には、人間の体って自然体でいたり自分が楽で楽しいと感じる瞬間がもっとも健康的なんだそうだ。楽な状態こそ効果的に能力が発揮できる状態でもあります。詰め込んだ知識をより有意義に使うことができるようになる。禁欲であったり、ただ自分を痛めつけたり、闇雲に苦悩に耐え続けることが人間を成長させるという昔からよく言われるしごき文化には違和感を覚えます。人生ではより多く笑い、より多く楽しむことがいいに決まっている。

ただフワフワ生きればいいというのでなく、心がワクワクすることをひたすら一生懸命やる。これが大事だと思う。より多くの笑いのために、より高みを目指すために一生懸命にやるときには、必ずどこかで自律心も培われる。もっと笑いたい、もっと誰かを笑わせたいと思う気持ちが人を頑張らせたり、逆境を乗り越える忍耐を与えてくれる。しごきや恐怖によって植え付けられた忍耐などではなく、未来の子供達はより能動的にワクワクしながら自律心を学んでほしい。現代社会では知識を与えるだけで、習得する意欲や、習得した技術を利用することの楽しさについては何も教えていない。問題は教養の有無ではなく、心にある。


非目標のススメ


最近の時流として、多くの教育やビジネスの現場でも目標を掲げさせる。目標は目に見える物であるべきで、期限が切れるものでなくては意味がない、と僕も厳しく教育されたタチです。人は目標に向かってこそ努力する。目標を掲げることは決して悪いことじゃない。ただ目標を掲げた瞬間に、僕らは自分の未来をひとつの方向性に縛ることになる。40歳までに部長になる!という目標は、40歳で部長になれなかった時の自分の中の笑いを1つ奪う。100人がみな一番になりたいと願ったとき、残りの99人の笑いが奪われる。このような目に見えた期限付きの目標は達成できなかった瞬間に失望へと変容する。目的が世俗的になればなるほど、結果ばかりに左右された人生が広がっている。今さかんに言われている目的志向は企業に対して献身的な労力をもたらす一方で、僕らの笑いを一つ一つ摘み取っている、とも考えられないだろうか?もし、僕らが自分の人生を世俗的な成功ではなく、笑い合える空間に求めるのであれば、目標はそれと正反対の、もっと瞬間的で永続的な心の問題であるべきだ。

たった今どう行動するか、その瞬間の心の在り様にただ集中することができれば、世の中にもっとたくさんの笑いを生むことができる。過去や未来の結果ばかりに振り回される人生はきっと希薄なものであるに違いない。今、自分が笑うためにできることをやる。その瞬間が永続的に続くようにと、知恵を学び心を修練する。結果の成否ばかりを気にするのではなく、心の在り様に集中できる習慣と環境づくりが大切だと思う。未来の子供達は、心を動かされた瞬間を素直に楽しめる能力を養って欲しい。現代社会では、何でもかんでも責任辞職で片付ける傾向が強い。結果や成果ばかりを見ていると責任のとり方も結果だけが重要視される。責任とはむしろたった今この瞬間の心の問題なのでは?と僕は思うのだけど。。。

瞑想による心の知力アップ


僕らは思うほど自分をコントロールできていない。自分を知らない。この知性が「自分」なのか、この技能が「自分」なのか、この性格が「自分」なのか?世俗的な成否で自分を装飾することが「自分」なんだろうか?りんごを見たときに、丸くて赤い300gの物体と感じる知性もあれば、暖かいと感じる感性があったり。あるいはそこに神聖をみいだす意識があってもいい。その違いにもっと意識的にならないと自分がわからないし、心底笑うこともできない。ところが、そういう感覚を感じる余白が今の生活には全く存在しない。これを自分を静観する瞑想の時間に求めてみたらどうだろう。武道で言う心技体の統一や、オリンピック選手のするイメージトレーニング、心と体をつなぐヨガなんかを想像すればいいかもしれません。「自己」を隅々まで静観し、コントロールすることが、結果的に技術につながったり健康につながり、人生をよりよく生きるための心の修練につながったりするんじゃないかと思うわけです。知性や技術の習得ばかりに目がいきがちな現代社会ですが、将来はより心の修練のためにもっと時間を費やす必要があるのじゃないでしょうか。その具体的な修練の一つとして瞑想という手段がある。


嗜好によって判断されている偏った現実


結局自分を知るって、想像力の深さにあるのじゃないかとも思う。自分を知るには自分でないものを知らないといけない。朝起きて顔を洗うのは常識なのか?僕だけのルールなのかなって想像してみたり。もっと自分を生物として想像してみてもいい。自分の吸う息から排出する糞尿にいたるまで・・・。ところで、糞尿が臭くて汚いと思っているのは僕が人間だからだ。不要なものを拒絶するように生体が作られているから僕ら人間には糞尿は汚物に感じられる。他の生物からしたら僕らの吸引している酸素は毒物であり、汚物は好物なのだ。僕らは現実をまったくありのままに受け止めておらず、自分の嗜好に寄って判別しているにすぎない。こうして想像力を深める内にひとつひとつ観念が消えていく。。。そこからより深く世界をみつめたとき自他一如の意識が芽生えるのではないか。


自分自身を見つめる習慣


幸せな社会をつくるためには、まずは自分自身を見つめる習慣が必要なのじゃないかなーと思うわけです。きっとそれがより多くの天才を生み、凡人を幸せにする。あからさまな血を見ずとも自然に世の中なんて変わるんじゃないかなーと、思ったりします。気づいてしまえば変わらざるを得ませんものね。

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Category: | Date:2010/01/15


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