未来のカタチ・・・(罪と罰)
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昔っから罪に対して罰を強いるというやりかたが好きでない。それが個人であろうと社会であろうとやっぱり変わらないのではないだろうかとも思っている。
罪は未熟さが引き起こす
たぶん、僕はどちらかというと罪をおかしてしまう原因は人の未熟さにあるのじゃないかと思っているからかもしれない。未成熟な赤ちゃんを叱るのは無意味というよりもむしろ理不尽だと思う。彼らは罰するより先に、学ばなければならない。
そもそも、なんで罪に対して罰をあてがうようになったんだろう。。。
厳罰化は犯罪をなくせない
この辺はぜんぜん調べてないのだけれども、社会の中で増え続ける犯罪を抑制するために罰則ができたのかな?罰をどんどん厳しくすればするほど犯罪の抑止につながると考えたのかもしれない。飲酒運転が横行すれば、規則を厳しくして厳罰化する。するとそれが犯罪の抑止効果を生むと考えられている。。。ところが過去の話しを聞いても厳罰化したところで犯罪っていうのはなくなったためしがない。例えば、電車でお年寄りに席を譲らない若者が増えたから優先席が必要になる。それでも席を譲らなかったら、罰金をとればいい!とか言う話しになってくるかもしれない。でも、結局ルールが厳密化すればするほど人はものを感じなくなる。特に優先席「意外」の席ではなんの感情もわかなくなるだろう。お年寄りは速やかに優先席に行ってくれ・・・。そもそもの思いやりの気持はいよいよ育まれない。どっかの心理学の記事に書いてあったけれども、厳罰化によって犯罪はなくならない。そういう研究があるんだそうだ。それは当然だといえば当然のような気もする。人生にはもっと甘くて輝く蜜があることを未熟な彼らは「知らない」。知らないからいつまでも目先のほろ苦い経験に酔い続けている。果たして罰によって人はこの無知から抜け出せるのだろうか?
刑罰は報復の代理?
軽すぎる判決に被害者感情を無視。。。なんてマスコミが騒ぎ立てることもある。。。でも、そもそもなんのための刑罰なのだろう。。。?そこがはっきりしない。被害者にとってやりきれない思いを法が変わって裁き、報復をしてくれる。。。ってことなのだろうか?刑罰とは被害者の報復なのだろうか?江戸時代には、仇討がよしとされてたくらいだから、これも一概にないとはいえない。。。法があなたに代わって仇討をしてくれる。。。ということなのだろうか?
こういう話しは、そもそもを考えないと始まらない。
僕らの理想はそもそもどこにあるのだろう。
全ては「気づき」のための機会
僕は人生とは、「気づき」だと思っている。それが犯罪だろうが刑罰であろうが、そこから人が何かを気づくことこそが宝なのだと思う。社会がせめて個人に何が出来るかと言ったら、この気づきを多く与えることのできる環境を整えることくらいじゃないのか?という思いがある。
その立場に立つと。。。
犯罪を犯したら過去の判例にそって判決をだして、数年間刑務所に閉じ込めておけば、なにかしら自分で反省してくれるだろう。。。なんていうのは、なんだか幼稚な社会のしくみに思えてならない。気づきを与えるどころか、やっかいものを死ぬまで隔離しているだけともとれる。これが社会の怠慢でなくてなんであろう。。。
大切なのは未熟である全ての人間に「気づき」が訪れる瞬間。。。この学びこそが人を進歩させる。本当の弱者は犯罪者そのものなのだ。彼らは単純に「知らない」のだ。麻薬を使ったとかいうことで、世論は犯罪者を血祭りにあげる。彼らとの違いは、僕らは麻薬は使わない方がいいということをただ知っているだけのこと。それに気づいていない弱者を救うことなく、ただ晒すだけの行動は野蛮意外の何者でもない。これはもう罰でもなくリンチだ。もうすこし社会の品性が問われてもいい。。。
刑罰を厳罰化すれば、おそらく犯罪は一時的には減る。だから、この大規模化して複雑になった社会を安定させるには刑罰はないよりはあった方がましに違いない。でも、敢えて理想を語りたい。理想がなければ僕らは先に進めない。僕らの理想は犯罪の減少ではなく根絶なのだ。そこに向かって進むためには、刑罰の厳罰化は思ったほどの効果をもたらさないだろう。。。
では、どうすればいいんだろう。
罪にある2つの側面
ひとつには、加害者意外の心理が働いていると思う。罪かどうかというのはその周囲の人間が決めている。例えば、バスの中で携帯電話で話すことは、悪いことだろうか?これは周囲の人間が決めるのである。周りの人間がうるさいと思えば、迷惑行為になる。それが次第にルールになり、やがて犯罪だと定義される。つまり犯罪っていうのは、人間の心の狭さが作り出す定義にすぎないのだと僕は思う。極端な話、盗みであろうが、殺人であろうがそれを許容できる愛情と技量があれば犯罪にはならない。
もし、犯罪を犯したのが他人だったら、僕は腹を立てるだろう。。。でも、それが可愛い孫娘だったら、きっと何か理由があったのだろうと同情し、更生させようと必死になるに違いない。犯罪ではなく、無知による過失だと感じるだろう。もし僕たちがすべての人間にたいして孫娘のような愛情を抱くことができたら、犯罪はなくなるし、罰など必要なくなるのではないだろうか。
もうひとつの側面は、加害者本人の心理だ。彼らは犯罪を犯しているという意識がない。あるいはあったとしても、犯罪を犯さない方が甘くてお得だ!ということを知らない。。。彼らに必要なことは、罰を与えることで矯正することではなく、人生にはもっとお得な道が広がっているんだ!ってことに気づかせることじゃないだろうか。彼らに必要なのは、愛情をもって癒してくれるお婆ちゃんか、もしくは愛情をもって叱ってくれるお爺ちゃんなのだ。
誰かに頼られ愛し合う社会の中では、そう簡単に犯罪は定義されないし、そのようなことも起こりにくくなる。必然的に責任感を伴い、人は社会に貢献するようになるだろう。
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Category:社会 |
Date:2010/02/07