未来のカタチ・・・(芸術)
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さて、このシリーズもついに最後のトピックを迎えました。
お題は芸術。こんなお題を挙げていたんですね。忘れてました。
このトピックに関してはあまり書くこと決まっていないけど
いくつか紹介したい記事がある。
文化は非合理の集まり
人間っておおよそ無駄なものの集まりでできているのような気がする。昔、司馬さんだったか、井上ひさしさんだったかが言っていたんですが
文化っていうのは、非合理の集まり。。。見たいなことを言っていた。
扉をあけるときにわざわざ三つ指をついてフスマをあけたり
方言の言葉のうしろの不自然な音の長さや、不思議な抑揚に情緒を感じたりする。
「D15ぢゃん、こげん田舎まで、よぉぉぐきたのぉぉ~~。」
こういう不必要な抑揚や音の長さにホッとしたりする。
逆に無駄なものを省いていくと言語なんかは東京弁とかNY英語のように
殺伐として人間味がなくなってくるんだそうだ。
人は非合理なところに人間味を見出し、そこに意味をもたせる。
それが、いいとか悪いとかではなく、きっと、そういう生き物なのだ。
知能だけで人は幸せになれない
ちょっと話が横道にそれますが、最近、流行りの脳の働きの話でEQなんて用語がある。
これは、IQ(知能指数)に対してEQ(情動指数)こころの知能指数といわれている。
僕も飛ばし読みしたので詳しいことは知らないんですが、
結論からいうと、人間の知能を効率的に上げるには知性だけの育成よりも
知性と、こころをバランス良く刺激することが大事なようだ。
また、人が賢くかつ「幸せに」生きるためにも情動指数がより深く関わっている。
人は、高い知性だけでは幸せになれないのだ。
こんなことが、近年科学的にわかってきたのだそうだ。
天才の生まれる3つの条件
そんな話を聞いていてふっと思い出したことがある。以前、「国家の品格」って本がベストセラーになったけれど
その中で、著者が面白いことを言っていた。
その著者は、天才が生まれる風土の研究をしたことがあるらしい。
天才っていうのは人口に比例してランダムに出現してるわけじゃないんだそうです。
特定の出現条件がある!っていうんですね。
その条件は、「美」と「受容」と「精神性」の3つだと言っていた。
天才が生まれ育つ風土というのは、必ずといっていいほど美しい風土が広がっている。
そして、神仏や伝統などを受け入れ跪く心を養う風土。
最後に、金銭や世俗的なものよりも、文学や宗教など直接やくにたたない
精神性を重んじる風土が根強い場所。
このような、3つの条件がそろっているところには、
驚くほど多くの天才が生まれるのだそうだ。
「幸せな街」づくり
このように見ていくと、人間の脳を効率的に刺激し、幸せな環境を作るには、街をきれいにし便利にするだけでなく、美意識を持ったまちづくりをすること
自分の能力を主張し牽引するというよりも、受容と相互依存の心を育むこと
そして、なにより非合理的な情緒を楽しむことのできる心を育むこと
この非合理性が、より合理的に人間の潜在能力に訴える方法なような気がする。
人間の創造する世界には、常に言葉の二元性がついてまわる。
右がなければ左は存在できないのだから、
「右」というのは、その存在そのものに「左」を内包する矛盾を抱えている。
きっと、人間の脳は機能的にも物理的にも、この二元性を内包している。
非合理性の中に、真の合理性を見つけられたときに
人間本来の能力が発揮されるのかもしれない。
美意識を刺激するもの、芸術
芸術と話がそれてしまったけれども非合理的な、芸術こそ美意識を刺激し、
矛盾に満ちたこころに直接響く媚薬なのだ。
街が合理化し便利になり大量生産に適した
無機質なガードレールが溢れるようになった昨今。
また、ひとひらの花びらに人生を垣間見る芸術家よりも、
1分間に1億円稼げるビジネスマンが有望視される昨今。
仕事をせずに、空想にふける少女がいてもいい。
彼女は後に偉大な文学を世に送り出すことになるかもしれない。
携帯メールでどれだけ早打ちができるかだけが表現の方法じゃない。
自由に歌い、演奏し、描き、沈黙するゆとりがあっていい。
非合理をどこまで許容できるかが文化の深みを生む
僕らの未来は、より知的に合理性や効率化を追求することではない。こういったとかく「無駄」と思われがちな非合理を社会がどこまで許容できるかによって、
僕らの未来の社会がどれだけ住みやすく、「真に」合理的であれるのか
はかれるのではないかと思う。
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Category:社会 |
Date:2010/03/12