ナオナオタロス
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ナオタロスの記事にたくさんコメントいただき、ありがとうございました。みんなそれぞれに色んな思いを持っているんだなーとか、思っていたらコメント返そうと思いつつも、何を書いていいかわかんなくなっちゃった。で、また記事を書いております。とりあえず、ナオタロスっていうネーミングは、仮面ライダー電王から来ています。わかった??って、この補足はいらないか。。
僕らは何ゆえ生きているのか??っていう問題を前の記事ではさらりとやり過ごしてしまった。「最大限の幸せを表現するためにある。」うん。。あの記事ではそれ以上踏み込む必要がないと思ったんだけれど、真面目にコメントがきたのを見て、やっぱここはちゃんと踏み込まないといけないかもしれないと思った。
問題の出発点を探ってみる
自分で自分につっこむようだけど、何故生きているのか、の答えが「幸せを表現するため」であるとしたら、不幸な魂は無意味な人生を送ったことにならないだろうか?コメントにも真面目に突っ込んでみる。不愉快に思ったらごめんなさい。死ぬことは難しいから生きているというのなら、逆に、生きていることが難しいのなら、死んでもいいということにならないだろうか?僕らは人殺しはしないけれど、人の痛みや苦しみをほんとに知っているんだろうか?この上ない苦しみとはどれほどの苦しみを味わえば知ることができるんだろう?生きるも死ぬも自分の意思だといいきることが本当にできるだろうか?生きることは前向きで、死ぬことは後ろ向きだと言うのはどうしてだろう?はじめから雑念を捨て去ることが目的であるのなら、雑念そのものは何故存在しているのだろう?
生きるとか、死ぬとかいうことをただ善悪で片付けようとすると、疑問が次から次へと沸いてくるに違いない。そもそも生き抜くことがいいことで、乗り越えられない苦しみなどなくって、死ぬことは悪いこと。という考えは正しいのだろうか?僕らが生まれてこの方、ずっと教え込まれてきた信条が、もし間違っていたら?問題の出発点が間違っているのなら僕らは決して答えにはたどり着かない。
死ぬことの悪意
死ぬというのは難しいことなのか?生きることはどうだろう?死ぬこと以上に簡単だろうか?死ぬこと以上に難しいだろうか?・・・あまり違いはない気がする。正直なところ、死んだこともないし、寿命まで生き抜いたこともないのだから、そんなの誰もわからない。生きるも死ぬも同じく知りえない事象に過ぎない。推測だけで話すのなら生死とは物事の始まりと終わり。もし、あなたが魂の存在を信じるならなおのこと、生死とはその通過点に過ぎない。では、なぜ死ぬことだけが「悪い」とされるのだろう。。。?そこが疑わしい。
苦しみを知っていれば死を選ばないのだとすれば、死を選ぶ人間は単に苦しみを知らない未熟な魂なんじゃないだろうか?赤ちゃんが、火に手を突っ込んでも責める人はいないでしょう?火傷をするということを単純に知らないのだから。それを僕らが責めることがどうしてできるだろう。。。本人からすれば、知らないことはわからない。そして僕ら自身もまだ知らないことだらけの未熟な魂なんだ。多くの危険を冒しながら気づかず生きている。そこに悪意はないんだ。
全てが自分の選択の結果だと知ったら何かがかわるだろうか
生きるも死ぬも全て自分の意思。。。生き続けることも、自殺することも、80歳で寿命をまっとうする死も、事故死も、全て自分の意思だとしたら。そこにはどんな違いがあるのだろう。寿命で死ぬことも自分の意思だとしたら?自殺することと何が違うのだろう。そう、死そのものは決して悪ではない。じゃ、自分の意志ってなんだろう?表層の意思なのか、深層意識の意思なのか、はたまた魂の意思なんてものがあるのだろうか?死を選んだ意思はどの意思なのか??全ての事象は、自分の意思によって選ばれていると知ったら、あなたの人生観は変わるだろうか?
もし、全ての事象が自分自身によって選択された結果だとすれば、僕らが持っている雑念も、全て選択された結果起こっていることになる。雑念の存在そのものが僕らの「願い」なのだ。雑念や煩悩は決して消されるために存在しているのではない。雑念が消えた時ではなく、雑念が枯れた時、、、僕らはすっぽりと幸せのなかに落っこちる。だから、幸せそのものが目的だ、という僕の記事もおかしい。幸せは掴み取るものではなく、幸せになることが大切なのでもなく、、、ただ落っこちる。
ただ枯れ葉が落ちるように
IT業界用語で、古く長く使われているシステムでバグが全て出尽くしてしまった安定した状態のことを「枯れる」という。枯れるという言葉は魅力的な言葉だww僕らは、全ての悲しみを消し去ったり取り除いたりするのではなく枯らすんだね。大切なのは事象の体験と気づき。。だから、罪を犯したり不幸であることは決して本質的に無意味なのではなくって、僕らの目の前にはあらゆる選択肢を選べる自由が広がっていることを証明している。幸不幸、そして善と悪は僕らの人生の自由の象徴。。。その際限ない自由が許される根底には絶え間ない愛情が必要なんだってこと、やっとわかるようになってきた。
もし、ホントに神様がいて、罪を犯した人を罰するのなら。。。はじめから罪を起こさないように人間を作ればよかったんだ!でも、それをしなかったのは何故だろう?罪を犯すことは決して許されない悪なんかじゃない。それによって罰せられる必要なんてどこにもないし、だから、それを恐れる必要もない。もし、神様なんていないんだと考えるなら物事はもっと簡単だ。自分のただ好きなように生きればいい。結局僕らは充足を求めることになるのだから。神がいようがいまいが僕らの生き方はなんら変わらない。僕らはただ落っこちればいい。
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Category:哲うこと |
Date:2008/08/25