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仏のみこころ

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さて、最近ご無沙汰気味のブログですが、、、せっかくなので仏教のススメでも書いてみましょうかね。僕は仏教徒ではないですが、お釈迦さんの頭の鋭敏さに魅せられた一人であります。


やりたいこと、ほしいもの


そもそも、僕らは生きているうえで何がしたいんでしょう?やりたいことはたくさんあるし、欲しいものもたくさんあります。時計が欲しい、洋服が欲しい、地位が欲しい、有名人になりたい、いやいや、お金さえあればなんにもいらない。。。とか(笑)

そういう欲求は別にわるいことじゃありません。でも、そこで思考を停止せずにもうすこし踏み込んでみると結構面白いと思うんです。例えば、お金が欲しいという欲求に対して
「何で、お金が欲しいの?」と自問してみる。
「だって、欲しいものがなんでも手に入るから。」
「なら、欲しいものが何でも手に入るならお金はいらない?」
「う~~ん。。」すると、ホントのほしい物はお金ではないような気がしてくる。
「じゃ、具体的にお金があったら欲しいものって何?」
「ゴージャスな家が欲しい!」具体的に欲しいものをあげてみる。
「では、どうして家が欲しいの?」更に、自問してみる。
「豪華な家で、セレブみたいに豪勢に暮らしたいもん。」
「じゃ、家が欲しいんじゃなくってセレブになりたいわけ?」

こんな風に、何で?何で?何で?を繰り返していってみる。ほんとーは、何が欲しいかわかるまで。するとですね、ま、だいたい行き着くところは同じなんですよ。みんな自分自身が幸せになりたいんです。幸せだという満足感を味わいたいんじゃないでしょうか?欲しいものは何でも差し上げますが、あなたの人生は惨めで不幸なものでもよいですか?といったら、なんだか本末転倒な気がします。幸せで満足でありたいから、様々なものを欲するんじゃないでしょうか?色んな欲求に対して自問していると、ホントに欲しいものがわからずに欲しいものを求めてるようなそんなチグハグな気持ちになります。みんな幸せになりたい。これが目的であるなら、自分の心の動きをしっかりと観察して、この区別をはっきりさせないといけません。ホントに高級車が欲しいから高級車を買うのですか?満たされない心を満たしたいのですか?


基準は善悪でなくワタシの幸せ


仏教はこの点、結構おもしろいんですよ。こういう自己の幸せっていう観点から善悪を語るんですね。ですから、僕らが世間的に思っているような善悪とか道徳なんてものは仏教にはないんです。別に神を信じ無くったっていいわけです。神を信じることが幸せにつながるなら信じればいい。車を買って幸せになれるなら買えばいい。極端な話、人を殺したってそれで幸せになれるならいいわけです。大雑把に言えば、幸せになれることが善、不幸にするものが悪なわけけです。ま、結局人殺しっていうのは、社会的信頼も失うでしょうし、相手の親族から恨みをかって逆に自分の生命が危うくなったりして、一時の満足はあっても結果いいことなんてなんも無いわけですから、普通は人殺しなんてしないほうがいい。他人を傷つけるということは反面自分を傷つけることの裏返しなのです。こうやって慈悲の心を持った不殺生の教えがでてくるのです。そうすると、やっぱり盗みもしないほうがいい。よこしまな考えは持たないほうがよい。となるわけです。ある行為そのものを指して悪だと言っているわけではないのです。人生というのは面白いもので、人や状況によっては同じ行為が幸福を招くこともあれば、不幸を招くこともあるわけです。お葬式に派手な服を着るのは悪だとか、異性に触ることは悪だとか一概に言えないわけです。道端に倒れている異性を見て、私の宗派では異性の体に触れることは許されないので手助けできません、なんていうのは馬鹿げた話です。こうすると幸せというのは決まった行為や、条件、物質などによって左右されるのでなく、自己の心の流れによって生滅しているのです。つまり、ここでいう善悪とはすべて個人に内在する心そのものなのです。ですから、お釈迦さんの説法というのは十人十色、十人いたら十通りの善悪があってよいのです。結局は大いなる観点から各々が幸せになれればよいのですから。特定の行動を戒めるのではなく、それによってもたらされる心の動きの方を観察しましょうよ、というのが仏教のそもそもの考え方なのです。


仏教には神様がいないですって


こんなんですから、面白いことに、仏教には神様がいないんですね。現代仏教ではいろんな神仏がいますが、あれっていうのはお釈迦さんの死後、飾り付けられたもんです。これも考えてみると実に筋が通っている。神様とか天国とか地獄とかそういう不可知のものっていうのは、極端にもしあったら・・・、もし、無かったら・・・と考えてみるといいんです。例えば、神様がもしいるのなら、僕らは死んだ後に罰を受けないように必死になって善く生きないといけない!じゃ、逆に神様がいなかったら?僕らは好き勝手に生きればよい。。。ただ、僕らの求めるものが「幸せ」にあるのだから、無頓着に生きることは幸せを生まない。いろいろなことに神経をすり減らして不安や怒りでいっぱいの人生を送ってる。それこそ地獄のような生活を我々は毎日送っているわけです。こういうことから開放されたければやっぱり善く生きたほうがいい。僕らが幸せに生きるためには一生懸命善く生きるのが結果的に一番の近道なんです。神様がいようといまいと、僕らの求める生き方っていうのは実はぜんぜん変わらなくはないでしょうか?だから、仏教ではこういう不可知のものを否定するでもなく、肯定するでもなく、ただ不問にするんですね。生活が楽しくなるなら信じればいいし、別に信じなくってもまったく問題ない。ただ、信じないと地獄に落ちるとか、信じれば天国にいけるだとか、そういう概念を否定しているんです。とても実践的な考え方だと思います。最近の多くのインテリさんの話を聞いていると非科学的だとか、科学で証明できないから!っていう理由で神仏を頭から否定する人たちがいますが実に理不尽でお粗末な理論だと思います。2500年も昔のお釈迦様の言い分のほうがよっぽどロジカルで科学的だと思うのです。


今を生きる!


お釈迦様自体が、習慣化し儀礼化してしまった当時の宗教を否定し、もっと論理的にしっかりと「生きる」ということの問題に向き合いましょうと、当時としては革命的な異端児だったわけですから、宗教的というよりもより論理的で科学的に感じるのもうなづけるのかもしれません。ですからね、当時のインドと同じように混沌とした現代社会の中で、何が問題なのかすらわからず迷走し続ける我々にとってはうってつけの実践論じゃないかと思うわけです。


原始仏教のススメ


まだまだ、語り足りないですが、こんなんで興味を持った方がいましたら、是非一度初期仏教/原始仏教をかじってみられることをお勧めいたします。その実用性と論理性にびっくりするはずです。初めて触れたときは宗教というよりも科学だ!と感じたくらいですから。ただですね、初期仏教って僕も米国で初めて学んだわけですが、日本ではあまりそれらしい文献に出会わないんですよね。どうも東南アジアから、植民地時代にヨーロッパを経由して伝わっているからなんでしょうか。そんなこんなで、人に勧めるものの、具体的な書籍などを提示できないでいたのです。そんな折に出会ったのが、先日のブログで紹介していたテーラワーダという宗派のアルボムッレ スマナサーラという方の書籍です。ベストセラーにもなっているようで、わかりやすく砕いたお話なので誰にでもとっつきやすい内容だと思います。物足りないと感じる方は、更に踏み込んで研究なさってくださればと思います。



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Category: | Date:2007/11/07


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