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これからの「正義」の話をしよう(マイケル・サンデル)

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マイケル・サンデル先生の『これからの「正義」の話をしよう』をやっと読んだ。しばらく家の本棚の積読本になっていた。。。一概に正義といっても個人や文化によってどこに主眼を置くかでその捉え方は様々だ。正義って決まった定義があるわけではなく、歴史の中で人によって作られ利用されてきたものだからだ。何を中心とするかによって僕らの行動の指針は変わってくるし、住んでいる社会の居心地も変わってくる。サンデル先生によると正義には大きく3つの捉え方がある。

1. 幸福
2. 自由
3. 徳

幸福の最大化こそが正義

ひとつめの考え方は、幸福度の増大を第一に考える。みんなが嬉しいとか楽しいとか感じるその度合いが大きいほど正義とみなす。より大勢の人がより大きな喜びを感じる社会を目指せば社会は全体として多くの幸福をうむのだ。しかし幸福の度合いを導き出すことは簡単なことではない。そこに普遍性を求めようとするあまり、ともすれば正義を福利の最大化を測る計算対象とみなしがちだ。快楽や幸福はどのようにして測られるべきだろう?人生の快楽には果たして高貴さや質があるのだろうか?また、より多くの福を生むことが正義であるなら、5人のうち4人が助かるなら1人のマイノリティーを犠牲にしても良いという話にもなる。

我々は全てに等しく自由な権利を持つ

もうひとつの考え方は、個人の自由を保証するというもの。これは現代でもっとも支持されている正義かもしれない。個人の自由を保証するものこそが正義なのだ。市場は常に自由であるべきで、僕らには平等の機会が与えられている。努力し実力で勝ち得る自由が僕らには保証されるべきなのだ、と主張する。いかにも現代らしい主観に振り回されない確固とした指標だ。しかし、自由に普遍性を求めるあまり心情や生活の質などは考慮されない。例えば、現代社会の貧富の差は自由市場の中で適正な競争の元、努力や実力に応じた当然の結果だ、と主張する。しかし、ある行為に対する努力が等価などと言えるだろうか?80歳の老人が40Kgの荷物を運ぶ努力と、20歳の若者のそれが同等だと言えるだろうか?イチローの努力とマイナースポーツの選手の年俸の差は本当に努力の差なのだろうか?サッカーの才のある人が、たまたまサッカーがもてはやされる時代に生まれたことはどうだろう?

道徳や美徳は迷信か

最後の考え方が、最も古典的で現代社会では敬遠されている考え方かもしれない。道徳や美徳が自由の主張や社会全体の幸福に勝るという考え方だ。現代社会のなかでは私的な道徳観や宗教観は政治などの公共な場に持ち込まれるべきでない、というのが一般的な常識になっている。宗教家が国会で「善について」を語っているような姿を想像するとなんだか嫌悪感すら感じる人が多いのではないだろうか?前者2つの考え方では、個人それぞれの行為に対する質や、善悪の問題、正しい行いとはなんなのかといった問題は政治上の「正義」の範疇を超えていると考えられる。社会として正しい行いはなんのか、僕らの生活の中での行為の質を問題にしないことは果たして良いことなのだろうか?

どうやらサンデル先生は、この前者2つの考え方に疑問を感じているようだ。しかしながら3つめの法則で社会共通の正義を語ることは難しい。道徳や美徳というのは個それぞれに異なるからだ。だからこそ、正義のジレンマを乗り越えひとつの答えを導き出すには、社会全体で正しい行いとはなんなのか、人生の目的は、愛ってなんだろう、宗教から何を学ぶのか、より深い話し合いの中からこれからの「正義」を定義していかないといけないんだ。





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Category: | Date:2013/03/02


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