いじめ
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社会人としての責任がありますよね
いじめの問題も来るとこまで来ちゃったって感じですね。自殺予告が文科大臣に届くなんてね。それに共感したってんで追随者まで現れているんだから、これ「模倣犯」とか「デスノート」じゃないですが、今流行の劇場型○○ってやつですかね。死ぬ勇気があれば、退学でも何でもして現状から逃げ出すことも出来るだろうに・・・。なんて、思ってしまいますがそれを許さない厳しい現実が彼らを死に追いやるんでしょうね。人間は一人では生きられませんから。生きることに意義を見出せない、そんな社会を作っている僕たち社会人にも責任がありますよね。
事物は自身の写鏡
釈迦の教えを借りれば、世の中で起きている物事は自分自身の心の映し鏡にすぎない。現実の苦しみを消したければ、鏡に映る自分を変えるしかない。逆に言えば自身が変われば今この場所にも極楽はやってくる。地獄は自身の心が生んでいるってことでしょうか。これは、たぶん、死んだところで変わらない。いじめられる方ばかり不公平だと思うかもしれないし、理不尽だと思うかもしれないけれど。いじめる方でもいじめられる方でもどちらかの立場で割り切ることにはあまり意味が無いんです。物事って、対(つい)があってはじめて存在できる。例えば、お腹が空いたっていう経験がなければ、お腹がいっぱいだということがどういうことかわからないはずですよね。いじめる立場であっても、その時に味わう恍惚感の対極に苦しみがしっかりと鏡には映りこんでいる。そこをしっかり思い出させてあげないとね。お腹がいっぱいであればこそ、お腹は空くんですから。そのどちらの両極からもはなれることを選択しない限り苦しみはついてまわる。
気づきを与えられる社会へ
んなこと言ったって、当人からすれば、辛いものは辛い。わかっていたって生きることは苦しい!可愛そうだけど、それでもやっぱり生きるっていうことは個人の問題だと僕は思います。ただですね。個人個人の理想に近づくために手を差し伸べてあげることはできると思う。個人の問題だとつきはなすことと、手を差し伸べることは決して矛盾しないと僕は思うんですね。世界には色んな段階があって、それぞれの段階で色んな物事が進行している。彼らは心の中で何かを求めていて、でもそれがなんだかたぶんわかってないだけ。わかること自体は個人の問題だけど、「気づき」を与えてあげることはできるんじゃないか。苦しいときの逃げ道を作ってあげることもできるし。ショートカットをこっそり教えてあげてもいい。これが個人を超えた「社会」の責任だと思うんです。個人の「気づき」をどれだけ効率よく促せる社会を創れるか。僕たち大人が果たさないといけない責任ってとっても大きいと思います。
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Category:社会 |
Date:2006/11/10