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アキバ事変

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いやいや、日本でも起きてほしくない事件が起きてしまいましたね。無差別。。。なんとも理不尽な言葉。色々言いたいことやら感じたことは多いのですが、なんかうまく伝えられる気がしない。書くのを避けようかと思ったのですが、とにかく書かないといけないような気持ちに突き動かされております。結末が見えないので、ぐだぐだになったらごめんなさい。


あるサラリーマンの会話


「災害でも事件でも起きて、会社ごと世の中なくなってくんねぇかな。」数ヶ月前、この事件とまったく関係ないどこかの若いサラリーマンが中央線の中で何気なく口にしていた言葉。。。今回の事件を聞いて、まっ先にこの若いサラリーマンを思い出した。今回の犯人もどちらも言っていることに違いはないような気がして。。。顔は冗談って笑ってたけれど、この若者がただ嘘を言っているようにも見えなかった。もしかしたら、これって結構多くの人が思っていることなのかな?今回の事件はこの手の妄想が実際に行動に移され現実になってしまったわけだけど、あの若いサラリーマンはこの事件で少し満足しただろうか。もしかしたら満足したのかもしれないな。ん?何が言いたいのかよくわからなくなってきた。


加害者と自分


話題を変えよう。犯人のことをフッと想像してみる。僕らと何が違ったんだろう。 25歳男性。実年齢以上に老け込んだ様にみえた彼。。。何だかわからないけど相当な苦悩があったに違いない。それでも、例えどんな苦悩があったにせよ、それを自分の外の世界の破壊に求めてしまったのが問題なんだよね。はけ口を自分の外に求めても何も変われない。そこに気づく機会が彼には訪れなかった。でも、考えてみると同じように僕らだって、そうやって責任を外的要因に押し付け、はけ口を自分の外に求めようとする。程度の違いこそあれ、やっていることは同じなのかもしれない。フッとそんなことも頭をよぎる。酒、たばこ、金、異性、麻薬、殺人。。。



問題は程度の違いなんだろうか。。。


生きることは苦しい。誰も彼もが多少なりとも苦悩を抱え生きてる。だけれども、悲しいかな他人が何を考え、何を思い、どんな苦悩を抱えているかを理解することってできない。これから彼の過去が暴かれ、検証され、事件になんらかの説明を与えようとする番組が多数でてくるんだろうけど。。。犯人の過去をどんなに漁ってもきっと答えは見つからない。本当に理解するということは産声を上げた瞬間から同じ体験をし、あの日同じ朝日を見て、そして彼の考えに一分たがわず同調することだ。同じ事件を起こさずにはいられなくなって初めて彼を理解したことになるのだとしたら、、、僕らはホントに彼を理解できるのだろうか。

いつもそう。自分の理解を超えた事件が起こると、必ず僕らはなんらかの理由を付けたがるんだ。TVに心理学者が登場して、○○症候群なんてテキトウな精神病名をつけてくれればそれで僕らは安心できた気になる。彼の過去をテキトウに検証してくれれば満足し、裁判でテキトウに法で裁かれることを期待している。これは関心を装った無関心。



大切なのはこの経験から私自身が何を学ぶかということ。


起こってしまったことを どれだけ彼に罪を負わせようとも。どんな裁きを与えようとも。過去は何も変わらないし、未来も変わらない。。。もし責任を追及するのなら、今現実に生きている僕らがそこから何を学んで、何を糧に生きていくかを選択することじゃないかと思う。彼は我々の最悪の妄想を現実に引き出した。この現実を突きつけられているのは加害者の彼だけではなく、我々自身も同じだ。さもなければ、いつのまにか真実はどこか遠くへ霞んでゆく。この意味で考えるなら"中立を保ち真実をありのまま伝える”と自負する報道とは、実に偏った存在に見えてくる。真実は中立という偏りの裏にある。

今、世の中はめまぐるしく変化している。なんでなのかわよくわからない。グローバル化やら情報化が進んで65億人が一挙に動いているせいかもしんない。。。昔々100年単位で動いていた物事が今ここでは10年そこらで目まぐるしく起こり続けている。そんな出来事がフラッシュバックのように頭に浮かんでは消えてゆく。輝かしい功績に沸く人々と、緊迫した情勢に今も息を潜める市民。華々しい舞台に酔いしれる大衆と、おびただしい血に染まる大地。。。僕らはそんな違和感に満ちた断片を同時に見つめながら、何かを感じる神経を麻痺させる。

罪や罰を決めることなんて裁判所に任せておけばいい。彼の人生を分析することは学者に任せておけばいい。事件の残忍さに興奮するのはマスコミだけで充分じゃない?僕らはその事件の中にあった愛情や勇気を瞑想しよう。その中にこそ僕らの生きる糧がある気がする。



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Category: | Date:2008/06/10


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