悲しい国
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「(日本は)資源や土地が無い国でさらには敗戦国。お金を稼いでお金で資源を買い、お金で軍力を借り、ODAと称して世界各国にお金を配る。そうして自己表現していくしかない悲しい国。」先日、A隊長からこんなコメントをいただきました。めずらしく隊長にしては過激なコメントでしたので印象に残っております。なるほどー。この短いコメントで妙に説得力がある。一人で関心しておりました。僕の長すぎる記事を見ながら、"そうして自己表現していくしかない悲しい私"なんて思ったり思わなかったり。。。でもなんででしょうね。自分たちの稼いだお金を世界に分配し、世の中の繁栄を促しているならばこんなにすばらしい国はない。・・・それなのに、なぜ"悲しい国"と表現したくなるんでしょう。
技術しかない日本
土地もなければ資源もない。まして最近では自国での自給自足すら捨ててしまった。自分たちの生きるための食料すらまともに生産できない国。それなら今までどうやってやりくりしてこれたかっていうと、やっぱり日本の技術力が世界に勝っていたわけです。足りない資源を補うために日本は技術を生産し世界に売ってきた。これまで日本は技術立国でやってきた、これから先もそれ以外に進むべき道を見出だせていないのが現状なんだと思います。
そんな中、近年の調査でわかってきたのですが日本では科学技術に対する興味が著しく失われつつあります。他の先進国と比べると日本人の科学に対する興味の低さは最低レベル。「好きこそものの・・・」といいますけど、逆に興味がないものに打ち込めるわけもなく当然ながら学力の低下が叫ばれるようになった。「ゆとり教育」の名の基に学力レベルをどんどん下げなければついていけない。それでも興味がない中でそれなりの成績をあげているのはむしろ若者の努力と忍耐の賜物とも言えるのかもしれない。教育が悪いのか、若者の質が悪いのか、社会が悪いのか。目的なくこれを話し始めると鶏が先か卵が先かの堂々巡りになる。
また、日本の中では科学技術は人類&自然にとって「悪」である、という構図がどうやら作られつつある。「科学が自然環境に悪影響を及ぼすか」という質問に対して、Yesと回答する小学生が急増しているのだそうだ。問題なのは科学技術そのものではない。それを使う人間にあるはず。しかし肝心の人間自身については、あまり語られることはない。それならば、あるいは新しい世紀の担い手として「これからは科学技術だけではやっていけない。」という立場に日本が立つのもよいかもしれない。しかし、ではそれに取って代わるものはなんなのか、については何かを模索しようという姿勢もみえない。結局どの方向を向いても行き止まり。いったいどっちへ向かえばいいの?というのが今の若者の正直な心境かもしれない。
世代別にみる技術力
ただ、だからといって若者はがんばっているんだ!と素直に割り切ってもいられない。時代は常に流れている。興味があるないに関わらず、我々はその知識で国際社会の中を生きていかなくてはいけない。この点については、困ったことにあまり危機感を感じていない人が多い。こういう話をしても、そうは言ったってハードウェアの面ではまだまだ日本の技術力は高いじゃないか?と感じる人も多いはず。それこそ、先人たちの築き上げた土壌の上に若者が胡坐をかいていることに他ならないんじゃないかと僕は感じてしまう。
21世紀は情報技術と、バイオテクノロジー技術の2本が支柱になると言われている。僕らは多少なりとも将来この分野で国際社会の中を渡り合っていかないといけない。この分野は若者に託されているわけです。ところが、前者のソフトウェア技術については米国に遠く及ばず、中国、インドなどの優秀な技術者に後ろをさされている。バイオテクノロジーにいたってはもっとひどい。米国では有名大学校の優秀者には文系理系を問わずバイオテクノロジーの教科が必須項目となっているそうだ。内容も驚くほど濃い。一方日本はといえば、大学の「お受験」が学生の知識の基盤を作っているというおかしな構造をとっているが、その受験にて生物学が選択科目になったことも手伝い、高校での生物にかける重点が著しく低下している。場合によっては、一流大学に通っている学生でさえその分野の知識は中学生レベルであることが少なくないのだそうだ。例えば最近週に1度は新聞記事で見かけるES細胞、これがなにかと聞かれて即答できる人は何人いるのだろう。僕自身も答えられるか危ういんですが・・・。何が問題かというと、こういう根本的な知識に欠けることはそのまま国益に影響する。金脈があっても、金の価値を知らなければ有効活用はできない。生物学の卵程度の知識を持った者と、中学レベルの知識をもった日本人がまともに将来のお話ができるか?といわれたらNoでしょう?それでいて、ハードウェアなら日本の技術はまだまだいける、なんて話を聞くとやっぱり先人の築いた土台に「最近の若いもんは・・・」胡坐かいてるといわれても仕方がない。
虚の経済に走る若者
このように根の深いところで、僕らは矛盾を感じていないだろうか。僕らはまだ大丈夫と表現しているけれど、足元がぐらついていることも実は本人が一番よく知っている。この矛盾がいいようのない不安を呼び起こしてはいないか。こういう不安の中で藁にも縋る思いで、ここのところ話題を集めているのが、「利益至上主義」というやつです。こいつがやっかいです。つまりお金があればなんとかなる。資源も、食料も、人情すらお金で買えばよい。若者に技術がなくったって、技術自体を金で買えばいいんだ。こういう発想をする人がでてきた。ただ、ここでしっかり考えてもらいたい。そのお金はどこから出てくるのか?
お金は「無」から作り出すことができるんです!最近よくビジネス書とか自己啓発ものの本でよく見かけますね。お金や物を「ころがす」なんていいますけど、実際「ころがす」だけで、お金が振って沸いたようにでてきます。つまり100円で物を買って、150円で売れば当然50円の儲けがでるわけです。こういうことを大規模にやって大きな収益を上げることができる。こういうことをやる人が尊敬されもてはやされるようになっきた。ただよく考えてください。この50円はどこからきているのか?何もないところからお金が生まれるなら10人中10人が物を「ころがし」あって生計を立てればいい!でも、そんなことができるんだろうか?この儲かった50円は10人のうち誰かに負担がかかっているんじゃないのか?大きな目で見ればお金だって有限なんです。何もないところから何かが生まれるわけはないはずです。よく考えて見てほしい。村上ファンドが儲けた数十億円はどっからきたのか?何も生まず、何も生産せず、何もないところで「ころがし」あうだけで果たして全ての人の生活が向上するんだろうか?
ここに落語のネタから面白い話があります。あやかり亭さんは知ってますかね?(落語:花見酒より)ある兄弟が川向こうの花見スポットに酒樽を担いで、お酒を売りにいくんです。ところが途中のどが渇いてしまったので、弟が10銭払うから酒を売ってくれって言いだすんです。お金を払うんだからまぁ、断る理由はないと酒を一杯酌んでやります。しばらくすると今度は兄の方がのどが渇いたから酒を売ってくれといいます。で、財布の中にはさっき弟からが支払われた10銭がある。これをそのまま今度は弟に支払う。お金払ってるんだから断る理由はないと酒を酌んでやる。で、また弟がのどが渇いたといって同じ10銭払う。そうこうしているうちに、10銭だけが行きかって大事な酒樽の酒は空っぽになってしまう。
酒樽の酒のような資源の無い日本では、この莫大な「ころがす」ことで生まれたお金は、おそらく僕らの労働力から知らず知らずに搾取されているんじゃないですかね。お財布から1円抜かれたって誰も気付かない。でも、それがたまりたまれば相当な負担になります。実体の無いところに価値は決して生まれません。どこかで実体とリンクしてるんですが、この実体と経済の結びつきを便宜的に分断してしまおうという傾向が強い。これを虚の経済と呼んでますけど、実世界の頭上で"マネー"だけが行きかって、知らず知らずのうちに地球の資源や人的資源が浪費されている。こう思えてなりません。これが、僕らを不安にさせている原因の1つなのだと思います。ここに迷い込んでしまうと、僕らはほんとに抜け出せなくなってしまう。気付いたときには、何も残っていないなんてのは嫌ですね。
参考
21世紀 知の挑戦(立花 隆)
バカの壁(養老 孟司)
記事
約500%の株価上昇--株式スパム詐欺の効果、ドイツ大学が調査(CNET Japan)
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Category:社会 |
Date:2006/07/07