未来のカタチ・・・(教育)
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教育は国家百年の大計である。これ誰の言葉かしらないけど、昔からよく言われますね~。この先、国家だけじゃなく地球の大計を僕らは考えてかないといけない。でも、無気力な子供達、両親の怠慢、教師の不義などなど、、、現状の問題は山済み。幾人かの人は、「教育は知識を与える場所ではなく、生きる意義を与える場所でなくてはならない!」という。それはそれで間違ってはいない。でも、なにがしの意義を定義しようとすれば、きっとどこかで摩擦が起こるに違いない。僕らの凝り固まった価値観からでてくる何物かを与えようとする限り、それが子供たちにとって重荷になっていくように思えてならない。
知識は条件づけを解消するために使われなくてはならない
僕らって生まれてからずっと、色々な常識とか、習慣みたいな「条件づけ」をされながら生活してると思うんですよ。「男の子なんだから・・・」とか、「お昼になったらご飯を食べる」とか 「ウソは泥棒の始まり」とか・・・。たった今こうしている間も、なぜ人は衣類を身につけなければ"いけない"のか。。。なぜ、皆決まって働かなくてはいけないのか。忍耐は良いこと?禁欲は善?キリスト教を信じる家族はイエス様に祈りなさいといい。イスラム教を信じる家族はアラーこそが真実だ!と叫ぶ。当たり前と僕らが思っている多くのものは、常識・・・という名のもとに僕らが生活するうえで常に条件付けされている。
この条件付けに気付かずにすり込まれた慣習は、狭い世界のなかでは役にたったかもしれない。世界の壁がずっと広くなった現在では、未来の教育に向けてこういうおおよそ全ての慣習はそぎ落とされなければならないんじゃないかな。過去からやってきた負の遺産から子供達を解放してあげないとね。きっと子供達は今以上に現実と習慣の間で傷つき続けることになる。知識は生きていくうえで、ゴミにしかならないこともある。決められたお決まりごとを暗記させるだけの教育じゃ、子供に過去を押し付けているだけのように思えてならない。過去に右ならえをするだけでほんとにいいのかな。ゴミのようにたまった知識で、子供達は身動きがとれなくなってない?僕らと同じマインドセットをもった子供たちは将来きっと、同じく条件付けされた習慣によってつくりだされた同じ社会を作りだし、同じように維持しようとするに違いない。そして、今と同じ社会の中で、僕らと同じ様にもがくことになる。
無知の知("知らない"を知ること)
でも、知ることで変えられる習慣もあると僕は思う。哲人ソクラテスは、「己が"知らない"という事実を"知り"なさい!」なんてことを言った。知ることで人は裸にもなれる。教育は過去のマインドセットから開放するためにプログラムされなければいけないと思う。哲学を学ばせたり、異文化とのコミュニケーションを重視したり、過去の人間の生き方に大きな影響を与えたキリスト教や、仏教、イスラム教などを知ることも大きな助けになるはず。なにより知識を貯めこむよりも、その知識を活用して新しく自分で考えられる能力をみにつけてほしい。インターネットが普及して、検索ボタンたたくだけで専門家並の情報が手に入る昨今。。。歴史の年表を1ミリの誤差もなく暗記することに何の意味があるのか。それよりも、人と触れ合ったり、美しい芸術や文学に触れたほうがよほど大きな刺激になる。音楽や芸術だけは今も国境や宗派を越える。過去の血なまぐさい歴史書を朗読するよりもよほどいいかもしれない。ただ、決められた道徳感や常識は押し付けられるべきではない。正しさや正義という「ものさし」さえ、子供たちを檻に閉じ込めることになる可能性を僕らは考えよう。知識は「習得・習慣付ける」のでなく、ただ、知ればいい。触れればいい。知識の多さや深さなどはどうでもよいし、知らない事が恥じゃない。知っているということだけに鎮座していることこそ見直されるべきだ。この情報社会で雑学王になることの意味はそれほど大きくなくなるはずだ。ようはその知識をいかように活用するかが彼らを自由の空に開放する。履修に関しては単に学年の進級や、試験や競争による評価ではなく、むしろ過去の常識や習慣にとらわれず自由な発想が脳から湧き出る状態をもって修了とするような、新しい判断基準をもったシステムに変えていくのが自然じゃないかと思う。
大人の観念から子供を切り離すことができたら
それを誰が責任持ってやるのか。。。
そもそも、過去のマインドセットに縛られた大人たちが、そこに縛られない子供たちを教育するかなんて、たいそう矛盾したことを言っているような気がしてきた。。。^^;この開放プログラムは、もっと踏み込んで考えないといけないのかも。例えば根本の原因になっている「家族」という単位から深く考察しないといけない。すると、両親だとか家族という産物からすら子供は常に影響を受け続けている。ここから開放してあげるには、子供は家族の所有物ではなく。社会の遺産として扱われるべきなのかもしれない。生みの親が子供を育てなければいけない!なんて決まりはどこにもないのだから。子供を生むというプロセスと、育てるというプロセスは明示的にわけられてもいい。インディアンのイロコイ族などはいい例になるかもしれない。
子供を両親の問題や恋愛情事に絡めることなく、また各家庭の理不尽な環境からも救うことができる。どんなに「良い」家族であっても、未来の子供にとっては弊害となる「偏り」があることに僕らが気付かなくてはいけない。核家族化している現代では、人との接触が少なく子育ての環境は非常に狭くなり続けている。そんな現状で、20代、30代の未熟な父母に子育ての全てを任せるのはとっても重荷なはずだ。幼児虐待の原因は両親だけでなく、未熟な両親に重責を負わせている社会の問題でもあると僕は思うのです。過去に、アメリカの先住民族でイロコイ族という非常に社会性、精神性の優れた部族があったのですが、そこでは生みの親と育ての親がわかれていたと記憶している。部族の中で選ばれた「クランマザー」と呼ばれる女性に全ての子供が育てられていた(記事1、記事2)。それぞれの子供の資質が小さい頃から見定められ、おのおのにあった教育がなされていたようです。この部族の若者が非常に頭脳明晰であり、部族そのものが末永く平和的に歩んでこれたのもこういった教育がひとつの要因だったと思われる。僕のこの考えは、この部族に端を発しているのですが、このような新しい子育てのあり方も考えておくべきではないかと思う。
技術的な知識などは、その次の段階になってはじて教えられればよいのではないでしょうか。もしかすると、子供達に確固とした見識がそなわれば、技術的な知識などは、おのずと身についてくるかもしれない。たいていの知識は巨大なインターネットにより、一瞬にして手に入るのだから。それを選び取る能力と見識が大切なのだと思うのです。過去のしがらみや、一部の既得権者に寄らず、自ずと社会全体に奉仕する形でより独創的で高度な知識が備わることを期待したい。
教育にマインドトレーニングや瞑想の導入を
すでに一部の医療機関や会社の産業医療、スポーツ界での精神鍛錬など。実践的には多く見られる「マインドトレーニング」。某会社の新人研修では、精神性を鍛えるために禅寺に修行に行く(実際これはどうかな・・・と思う部分が多々あるけど、ま、方向性として・・・^^;)。特に、強いプレッシャーに打ち勝つ必要のあるスポーツ選手などでは、ここ数年では当たり前のようになってきた。オリンピックの水泳競技では、日本代表選手全員に、マインドトレーニングの講習会があったそうだし、元格闘家のスドウゲンキは瞑想によって強靭な精神を培っていたようなことも聞いたことがある。瞑想が脳に与える影響などを研究する脳医学もよくテレビでみかけるようになった。残念ながらこういうトレーニングって一流のプロスポーツ選手に取り込まれてるにしろ、教育の現場には持ち込まれるようなことはない。今だに教育指導要領のノルマが終わらないから、授業時間を増やす増やさないだのの議論に終始している。ストレスからの開放、プレッシャーからの開放、不安の解消など・・・自己の内面に向かい合う時間こそが現代人には最も必要だと思われる。ストレスや、恐怖、不安などは、全て自分の外的要因に起因している。もし、僕らが純粋に自分の内面に向き合うことができたら、これらの日常の全てのストレスから解消されるはずだ。物事は心の置き方によって見え方がかわってくるものだから。自然と体が平安をとりもどし、集中力を高めてくれる。
教育も物質だけではなく、精神の内在性に目覚めて初めて完結するはず。このために、「禅」 「ヨガ」「瞑想」など、精神性を豊かにするためのあらゆる人類の遺産も試されるべきだと思う。
教育により見識を高め僕らの過去の負の遺産を全てそぎ落とすこと。次に、内在性に向かいあうこと。僕らはもっと何もない空間を満たすことができる高い知性と能力をもっているはずだ。過去のあらゆる常識から子供達を解放し、何にも寄るところのない新人類を生み出すことで、人間本来の知性溢れ愛情豊かな社会が創造できると信じている。
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Category:社会 |
Date:2009/05/23