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未来のカタチ・・・(生きる)

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人間なんで生きてるかって言ったら、自分自身の成長を最大限に表現しよー!ってことなんじゃないかと思うんです。そのために、社会ができるコトといったら、個人の「人間性の成長」を最大限ひきだす環境をつくることなんじゃないかと思うのです。もっと直接的な表現をすれば、精神や魂の成長。そういう思いで未来を考えたとき、なんだか未来の社会の姿が少しずつ見えてくるような気がします。


社会は個人の成長を促すためにプログラムされる


だから、皆が幸せに暮らせる社会って言うのとはちょっと違ったり。
資本がよく流れて経済効率がとても良い理想的な社会のしくみ作りともちょっと違う。
社会のしくみのために、僕らがいるわけでなく、

社会は個人の成長をより適正に促すためにプログラムされなければならない。。。と思う。

個人の成長の前には困難もあるだろうし、一生懸命生きないといけない現実も、あるいはその逆もありますよね。社会がどんなに平安になったとしても、個々人の順境や逆境は必ずついてまわるんじゃないかと思う。僕ら自身の成長のためには、いぢめもあるかもしれないし、争いもあるかもしれない。貧富の差があったり、差別もあるかもしれない。でも、ただそれを容認するのではなく、そこからどれだけ多くを有効に、そして早く学び、自身の無知に「気づき」を与えることができるのか?それが社会の大きな役割だと思うのです。困難を消し去ることが必ずしも目的ではない。


感情の透明化と開放


人間の全ての感情は愛情から派生している。人間の生の衝動は、広義にも狭義にも自己への愛情なのだ。不安も怒りも悲しみも、それは元をたどれば、自分の愛する息子を失いたくないという不安だったり、愛しい自身を守るための怒りであったり、愛しい君との別れの悲しみであるかもしれない。広義には他人への愛情すらも自己の中に完結する。全ての感情をありのまま味わうことができれば、僕らは今よりずっと幸福を感じることになるはず。

ところが、こういった自然の感情が抑圧され、搾取され、僕らの個人から愛情ある学びや気づきの機会を奪ってしまう。争いや憎しみはあってもいい、物質への拘りや、性への欲求もあっていい、ところがそこから我々は何かを意識的に学んでいると言えるのだろうか。貧困にもがき生きることそのものに不安を抱き続けている数十億人の人間達・・・。憎しみに駆られたまま無闇に失われる命・・・。過剰に演出される富への執着や、性への抑圧・・・。この状況が、果たして最適な気づきの場といえるのだろうか。。。現在の社会は、僕ら個人にこの大切な気づきの場を充分に提供しているとは決して言いがたい。


「気づき」に敏感な社会


充分に気づきのある社会であれば、今ほどの余計な搾取も必要ない。世界の富をほんの数%の人で独占することが資本主義の最終形なのだとしたら、そんな主義から離れたほうがいい。最終形は常に個人の「気づき」にあるべきなのだ。今ほど余計な殺戮兵器も必要ない。人類を数千回も絶滅できるほどの武力から、我々が何を学べるというのだろう?大切なのは「気づき」なのだ。今ほど無駄に「無駄の削減」と叫ぶ必要もない。時間の浪費や、賃金の浪費が、誰かの成長を促すのだとしたら、それは決して無駄などではないのだから。美しい景観や芸術はより僕らの心を突き動かすようになるだろう。大切なのは「気づき」なのだ。誰かが誰かを執拗に裁く必要もない。僕らが生きていく上で大切なのは、罪を罰で償うことではなく、あらゆる事象から何かを学びとることなのだ。大切なのは、その事象から個人が何かを「気づく」ということに尽きる。


「生きる」ために社会にできること


すると社会として大切なのは、現代のように執拗に個人に介在することではなく、いかに個人に介在「しない」かということではないだろうか。僕らは生まれてから、ずーーーと、社会人として、他人に介在し続ける道をプログラミングされてきた。ところが、大切なのは他人への介在ではなく、自分自身への介在こそが「気づき」の第一歩なのだということに、僕ら人類はようやく気付き始めたところなのだ。究極的には我々の個は全体性の中に溶け込んでしまう。だから、何者にも介在しないことはありえない。やがて誰もがその境地に気づいたとき初めて僕らは精巧に「生かされている」ことを知るのかもしれない。社会を考えたとき、個人の生が何者にも介在されず、自由に気づきの場を味わう空間を創造すること・・・これが、未来の社会のありかたなのではないかと思う。

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Category: | Date:2009/06/26


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