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未来のカタチ・・・(資本主義)

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すべてが資本として数値化される社会


人間そのものが"資本"として扱われる社会。フツーに就職し、フツーに生活しているなかでも僕らの労働力には値段がつく。。。およそ全てのものがモノと同じように扱われ、どこまでも利益を追求することが意義とされる社会。。。際限なく続く利益追求は僕らをどこまで連れて行くんだろう?僕が就職した企業では、毎シーズンごとに達成目標が掲げられていた。今期の頑張りや達成度とは別に、来期の達成目標はほぼ機械的に前期の利益に上乗せされた目標値が掲げられる。おそらくどこの企業でもだいたい同じようなものですよね?利益を生むことが存在理由と断言される企業組織では、利益は常に右肩上がりであることが求められる。。。横ばいでもなく、常に成長が求められる。利益を捻出し続けることはとても大変。それでも利益はあらゆるところから捻出され続けなければならないのですものね。全ての企業が常に成長し続けることができないのなら、相手を淘汰しシェアを拡大するより仕方ない。それでもダメなら、コストの削減、リソースの削減・・・利益率のいっそうの向上が求められる。利益が生めなくなったのなら、諸々の削減により僕ら平凡な社会人の給与が減り求人が減るのだ。購買力が低下し、景気はますます後退する。発展途上国からの安い労働力や資源をあらゆる理由をつけ搾取もする。僕ら先進国の企業がこぞってグローバル化を叫び、途上国を自由貿易という名のもとに自身の配下に置こうとするのはこのためじゃないのか。グローバル化によって得をするのは先進国の一部のグローバル企業じゃないのか。グローバル化が本当に世界を幸せにしたのか。実際、グローバル化を進め自由貿易を推し進めても世界の貧困はなくならなかった。単に貧富の差が広がったに過ぎない。結局、この際限ない利益追求は持つものと持たざるものの二極化以外の何がもたらされたんだろう。。。今、米国ではほんの1、2%の人口が富の50%を保有しているとも80%を保有しているとも言われてる。この一握りの勝者と大部分のラットレースに飲み込まれた大衆・・・ここに僕らの求めた安泰した社会の姿が見出せるのかしら。

資本主義の未来を考えてみよう。


1. 最低限を保障しよう。


日本に限ってもこれだけ世の中が発展し、コンビニが蔓延し、50mいけば自販機があり、、、誰もが何不自由なく暮らせるようになったにも関わらず、僕らは未だに「生きる」ことそのものの不安から抜け出せずにいる。給料が低いと嘆き、リストラされるかもしれないと不安になり、就職先がないと絶望的になるのです。。。就職できなければ僕らは生きていけない・・・そんな嫌がおうもない不安に追い立てられている。この不安を脱ぎ去るかのように、賃金の低い労働者はアリのように働き、富める労働者すら不安を拭い去れずハチのように働き蓄財に励む。「宵越しの金はもたねぇ」江戸っ子の影などどこ吹く風・・・。今や日本は1家族平均1千万円の蓄財があるといわれるほどの貯蓄国家になってしまった。それでいて、国民の購買力は低下し続けている・・・。この不安はどこからくるのだろう?老人は自分が不溶物だと、早死したいとぽっくり寺に通う。

この不安から解放されるためには、最低限の生活賃金の保証があればいい。何もしなくても生きていける!という最低限の安心があれば、余計な未来の貯蓄にせいをだす必要などない。僕らはただ今を生きればいい。その上で、高級車が欲しければ一生懸命働けばいいし、自分の今を大切にし精神的な生活を送ろうとするならばそれが許されてもいいはずなのです。自身の求める生活レベルに応じた努力による賃金の格差はあってもいい。ただ、それは今のように際限のないものではなく、上辺が向上したならば同様に底辺も底上げされるべきでしょう。格差を縮める努力というよりは、社会全体の底上げを常に行う努力を行うことで、格差は自然に縮まる。社会全体の幸福なくして、個人の幸福などありえないのだから。


同時に最低限の保障構想は、「なにもしない」ニートのような人間を多く作り出すかもしれない。未来の社会は、このような人間を許容する器量が求められるようになるのだろうか。ただ、「何もしないことが悪いこと」という概念はどこか恐怖に似た観念だ。この感覚を捨てることが僕らにできるだろうか。豊かな社会とは、このような非生産的な人間を多く抱える器を持っている。多くの詩人や、芸術家、現代のスポーツ選手など、世の中になくてもいいものを生み続けている人は豊かな文化になればなるほどたくさんいる。これらの人々を許容できれば僕らの社会はよりいっそう美しく豊かになるのかもしれない。

2. 社会成長率は、購買力によって計られる


「企業というのはそれが個人企業であろうとも、本質的には公事である。私事の都合で判断してはならず、常に共同体にとってプラスの影響を及ぼすのかマイナスとなるかという観点からものの判断を下さなければならない。」松下幸之助の言葉。会社は利益を生むために存在しているではなく、公に広くプラスに影響するものであって初めて存在意義が認められるべきなのではないだろうか。僕らの生活が向上しないのであれば、それがたとえ多くの利益をもたらそうと意義があると言えるのだろうか?僕らの働く企業体、みんなが通う会社は、利益を生む以外に何をもたらしているのだろう。重心はどこにあるのだろう。。。社会的な評価を単に利益で計ろうとする仕組みは変えられなくてはならない。


これは一つの提案であるけれど、社会や企業の成長度というのは、購買力によって計られるというのはどうだろう。単に収入や利益の計算が間違っていると言いたいわけじゃない。それは指標としての手段でしかない。その結果が今の社会だとしたら、別の指標があってもいいと思うのです。例えば、企業は顧客ではなく従業員の購買力が向上するための最大限の努力をするべきで、単に売り上げを向上させたり、お金を稼ぐことだけでは未完なのじゃないかと思うのです。企業の持続可能性は、その社会地域の中で発揮されなければなりません。今流行りの持続可能っていう言葉はどこかうさんくさい。そもそもの土台が持続可能でないことを誰もがよく知っているからだ。持続可能性をよりその目的を明確にするために購買力という指標で評価してみるのはどうだろう。


利益を確保することが企業の責任ではない


このような指標で企業や社会が計られたとき、企業のありかたはだいぶ変わってくるのではないでしょうか。

生活をする上での不安要素を取り除き、充分な生活環境を整えることが、ただ高給を与えることよりもより重要視されるかもしれない。リストラだといって、多額の退職加算金を上乗せして示談するだけでは、企業の責任を果たしているとは言いがたい。有害な商品を売り続けながらも利益を上げ続ける企業などが、借貸表の上だけで高い評価を受け続けることもない。僕らの生活が向上し購買力の向上によって企業の質が問われるならば、たとえ利益を生まなくても僕らの生活に大きな影響を与えるであろう団体、例えば、「パラン・パル・ミル」のような半ボランティアのような活動にもより多くの資産がまわってくるようになるかもしれない。

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Category: | Date:2009/06/14


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