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未来のカタチ・・・(宗教)<3>

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ニューエイジによる原点回帰


世界から恐怖や不安を取り除き、人間本来の愉しみを取り戻すことはとても大変な作業です。ところが最近、ニューエイジやら、インドの神秘家などについても色々調べていると、近頃の思想には大きな変化が訪れているように感じます。より多くの秘伝が公開され、よりシンプルに本来の思想を呼び起こそうとしているような気がします。ざっくりと言うなら、これまでの恐怖は感謝に置き換えられ、罪や罰などに怯えることよりも、ありのままの事象として受け入れ愉しんでしまうこと。このような原点回帰のような思想の変化が起こっているように思います。


みんなが夢見るゴールは同じ


皆さんが何の宗教を信じているか/または信じていないかはわかりませんが、人はみな例外なく幸せになりたいと思っているのではないでしょうか。宗教を信じて幸せになるのであれば信じればいいし、そうでなければ信じなければいい。どの預言者も人が幸せになることを推奨こそすれ誰も否定していない。非常に論理的だったお釈迦さんなんかは、目に見えない神について一切触れてすらいない。神様の存在の真偽なんてどっちでもいいんです。僕らみんなが幸せであればいい。そこを追求すればするほど、宗教を信じようが信じまいが、神がいようがいまいが、僕らの望む生き方や考えにはそんなに違いがないことに気付くと思います。

宗教を信じている人へ。。。恐怖からの開放


僕はどちらかというと、心のどこかで目に見えない大きな存在を感じている派ですが、その存在が大きければ大きいほど恐れを感じるのはどこか「違う」と感じる。地獄絵図をみて怖いなーと思ったり、天罰を恐れたりする気持ちはなかなか拭えませんが、、、考えてみれば人が罪を犯したからその報復に地獄に送ったり罰を与えたりっていうのは、あんまり上品なやり方じゃないですよね。。。それが想像しうる至高の存在がすることなのかちょっと疑問に思うのです。自分の子が罪を犯したら愛情溢れる母親ならどうするだろう?神様じゃなくったって地獄に落とすようなことはしないですよねぇ。するとどうも自分の思い描く至高の意思と、教わった「神」との間には相当のギャップがある。そんな時に、親鸞が言ってた言葉に出会ったんですね~「悪人こそが救われる」。もし愛情に溢れた完璧な存在がいたら、きっと一番最初に助けるのは優等生ではなく、未熟な「悪人」なのじゃないかしら。。。と妙に合点がいったのです。一生懸命生きている人は偉いかもしれないけど。。。優等生を救うことなら誰にだってできるもの。別に自分は偽善者などと嘆く必要もないし、お布施をしなかったら守ってもらえないとか、バチがあたるとか、そんなことに煩わされる必要もないんじゃないかなぁ。ただ、「ありがとう」という気持ちがあれば充分なんです。


「完璧な神」と「不完全な罪」の存在は矛盾しない


このときから、神という言葉への執着や、恐怖などは実は僕らが良く生きる上で全く「重要でない」のだと思うようになってきた。そもそも、犯罪を犯すことが罪なら、犯罪を犯すことが不可能なように世界を創り変えてくれたらいい!神を信じないことが悪ならば、最初から目に見える形で姿を現したらいい!でも、そうしないのはそうしなくてもかまわないからなんじゃないかしら。インドの神秘家が言うには、人生はあらゆる経験を味わいつくすためにあるのだそうだ。だとすれば、僕らの生きる世界にこんなにも喜びと苦しみを選択できる自由があることこそ祝福されるべき道理なのです。遠藤周作さんの著書『沈黙』の中で、こんなにも苦しんでいる我々に神はただ沈黙を守り続けるのはなぜか・・・問いかけますが、この沈黙こそが人生最大の祝福だと思うのです。そこに神の介在があればそれはもはや自由とは呼べない。気ままに苦楽する僕らの人生にただ沈黙で応える存在そのものが愛あふれる神の本質なのだと思う。苦しみも喜びも世界はありのまま美しい。。。それが神の神たる所以だと思うのです。

宗教を信じない人へ


そもそも、人がみな幸せであれたなら宗教などは必要ない。もし宗教が今のように人を分断し不幸に陥れるのなら、宗教などむしろないほうがいい。宗教は世界にただひとつ、みんなが幸せであれたらいいという思いがあれば充分だと思う。その意味では、僕もあらゆる宗教や宗派を否定します。神様なんていないから、好き勝手に生きればいい!という考えも全く問題ない。むしろその方が神の名の元に殺しあうよりずっといい。でも、幸せになりたいという欲求は誰もみな同じだと思うのですね。幸せになりたかったら好きに生きるといっても自暴自棄であるよりやっぱり良く生きたほうが近道なんです。だから、自分を含めた全ての人が幸せに暮らせるための方法として、たくさんの知恵や思想が宗教学につまっていることを否定してしまうのはなんだか尚早な気がします。宗教に属していようがなかろうが、僕らの求める生活というのには大きな違いはないはずですから。


生きる意味を考えることはタブーでしょうか


小さい頃から「タブー」という理由だけで、生きる意味だとかあらゆる思想から僕らは遠ざけられてきたんですもの。このタブー自体が戦後に人によって作られた教義だということを忘れてはいけません。未来の子どもたちに僕らが残せるもの。。。残してはいけないもの。。。ってなんだろう。宗教自身が作り出した「恐怖」だけでなく、それを全く否定する「タブー」それもまた作り出された狭義な思想だと思うのです。


道徳観と社会の常識がかけ離れている現代


エドモンド・バーグが言うには、理想の社会とは、社会の常識が真の知恵と倫理にとても近い状態の社会なのだそうだ。ま、真の知恵と倫理ってなんなのよ?ってつっこみどころもありますが。。。社会の常識に従っても、自分の生きる指針が道徳的にも知識的にもブレてないってソコソコ自信が持てる社会です。ところが、現代の社会はお世辞にも、僕らの常識感と社会の倫理が一致しているとは言いがたい。利益至上主義に従えば人としての品格を失い、産業発展を推し進めれば人権を踏みにじらなければならない。これからは、社会がより人の倫理の問題や魂の問題、あの世とこの世の問題やら、様々な形而上の問題にも踏み込まなければいけないのではないか。それが未来の宗教と科学が歩み寄る接点にあると思うのです。現代の大半の科学者は中途半端。形而上の問題に踏み込まなければ科学の解明できる領域は半分しかない。ここにも理由のない「タブー」が立ちはだかってる。「信じる」宗教から、「知る」宗教に変わったとき、偏狭な教義から開放され、僕らは本来の愉しみを自由に享受できるようになるのかもしれませんね。

<おしまい>

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Category: | Date:2009/10/30


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