未来のカタチ・・・(老後の価値観)
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最近、平日に時間があるので、ふらりと街にでてみたりする。すると、やっぱり多いんですね。お年寄りが。。みんなよたよたと歩き、着ているものも一様に地味なのだ。バスに乗れば若者から煙たがられ、道を歩けば車のクラクションに追い立てられる。過去のどの時代をみても、お年寄りがここまで卑下された時代はないだろう。どの民族もきまって長老になればなるほど、身なりは荘厳で尊いものになるのが通例ではないだろうか?人は歳を重ねるごとに様々な経験をし知恵を得る。それが生きる糧となり民族から慕われてきたのだ。
社会に誇れる高齢者の姿
なんでも必要な知識や技術が即座にインターネットを通して得られてしまう現代では、豊富な知識はこれまでほど貴重ではなくなってきた。より新しい技術と、より利益をもたらす効率化こそが社会を築く、と皆が錯覚するようになった現代(確かに、それも時代を切り開く大きな力の一つではあるけれど)。僕らはいつしか、豊富な人生経験を敬うことをやめてしまった。老人に見合う荘厳な服も、威厳を誇る杖も、彼らの居場所すらもなくなろうとしている。。。若者だけでない、老人自身が自分たちの価値を否定しはじめている。残ったのは、いつまでも精神年齢が実年齢に伴わないがんこ爺婆ばかり。
老人を卑下するたびに重なる若者の未来
それでも老人は社会の憧れであるべきじゃないかな。人間としての見習う対象であるべきなんだと思う。今のサラリーマン生活を見てみても、30代、40代を怒涛のごとく会社に奉仕して、年をとったらなんだかゴミのように突然世捨て人にされてしまう。だれも自分が老人になったときの姿を誰も思い浮かべることができない。こんな社会はどこか病んでいる。老人を卑下することはまぎれもない、自分自身の未来を卑下することに等しいのだから。若者が未来に希望がもてず、未来の自分の姿を想像できないのは、虐げられた老人の姿に自分の未来を心のかたすみで重ねているからではないか。
虚の世界に翻弄される若年
輝かしい技術や、マネーゲームの勝者ばかりが取り上げられ、新しい知識を次から次へと吸収できる優秀な若い人材が、もてはやされる現代。そういった知識をフル活用して利益を上げようとどこまでも奔走する企業。しかし、僕らは、そんな結果だけに翻弄される人生に疲れ果ててしてしまっている。過剰に駆り立てられる物欲、食欲、性欲に満たされる一方、人間のもっとも基本的な愛情や、思いやり、コミュニケーションに飢えている。今、僕らが求めているのは、知識ではなく生きた知恵。物ではなく、心なのだと思う。
豊富な人生経験や知恵を持っているというだけで、老人はもっと重宝されてもいい。善く生きれば、良い老後が送れるんだという社会の保障が必要なんじゃないか。だからこそ、若者は精進できる。
年齢と精神は分離して考えたらいい
子供、大人、老人という区別にも問題がある。何でもかんでも、機械的に分類され判断される法律や仕組みには大いに問題がある。実年齢が20歳を過ぎたという理由だけで、大人と認められ、誰かを教育し子供を育て、社会の責任ある仕事に従事するという仕組み自体が時代遅れじゃないかと思う。多くの場合、僕らのように法律上は大人とレーティングされている若者は、子育てを始め責任ある社会の仕事をこなすほど成熟してはいない。そして、人間として円熟味が増したころには、隠居させられるのだ。未熟な"大人"たち集団が作り上げた結果が今の社会の形態なのだ。だからこそ、高齢者は自分の社会における責任ある立場をしっかりとわきまえる必要もあることを肝に銘じる必要がある。人生経験をいくら積んでいても精神年齢が幼いものに人生の価値を語る資格などない。
精神年齢を伴った老人を敬い、社会の遺産として貢献する場を与えていくこと。これが新たな大きな力、そして若者にたいする新しい希望をを生むのではないかと思う。。。
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Category:社会 |
Date:2009/07/25