環境問題を考えてみる
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前に「記事:淘汰」で、自然淘汰という言葉を聞くとぞっとするなんて書きました。マーケットの世界でも個人の生活でも強い者が他を制するっていう適者生存の考え方がなんとなく納得できなくって。。。ただ、その後色々考えましたが、確かに自然界を見ても弱い雛は死んでいきますし、環境に適応できる強い種だけが生き残っているように見えます。ダーウィンの進化論がどんなものなのか僕はよく知りませんけど、これを思うと適者生存ってやっぱり正しい。ビジネスやマーケットの世界だってやっぱり強靭な製品とコスト構造をもった"強い"会社が生き残っている。やっぱり適者生存ってそれ自体は間違っているとは言えないんですよねぇ~。
全体をみると適者の意味が違ってくる
でも適者ってなんなんすかね?ちょっと自然界を俯瞰してみると色んなことが見えてきます。たった1本の木の葉を見ても自然はそれだけでよくできた大きな循環システムです。一枚の葉が動物を養い、動物の廃物がそのままバクテリアや虫の餌になり、そのまた排物がめぐって植物を育てる・・・。このシステムを幾重にも織り成し補強するかのように自然界にはありとあらゆる多様性が育まれています。全ての種が複雑に絡み合い互いに影響し支えあっています。この循環システムの中にあっては種の繁栄はそのまま他の種の繁栄につながります。これこそ自然の神秘ですよね!逆に1つの種の衰退はすなわちシステムの危機をも表します。確かに「部分」を見れば適者とは強い種が生き残ることであるように見えますが、自然界それ自体を全体として見たときに適者とは他と共存し共栄できる者ということになる気がします。生き残りをかけた強者とは?
自分の周りの養分を全て独り占めするほどの強い種の木があったら。。。その木はやがて全て吸収し見たこともないほどの大木になれるかもしれない。"養分を吸って成長する"という「部分」だけ見れば、大木に成長したこの木は成功を収めたことになる。ところが周りの種は絶滅しそれを必要としていた虫や動物やバクテリアがいなくなり自然から循環システムを構成する多様性が失われる時、この"木"自体は生き残れるんですかね?強すぎる種もいずれは自滅の道をたどるのもまた自明の理に思えるのです。そうすると適者ってなんだろうって思うんです。過酷な自然環境の中で生き抜ける強い種だけが残るっていうこれまでの考えと違い、適者の本当の意味は多様性と十分な要素に富んだ自然にいかに身を置き共生できるかってことじゃないかって思うんですがどうでしょうか。。。日常で僕らは適者の意味を履き違えてないだろうか
これを今度はビジネスや自分の生活に置き換えてみるとまた違って見えると思うんです。市場におけるほんとの意味での適者って誰なんでしょうね。これまで僕らはこの複雑な世界をより細かく単純な部分として理解することで飛躍的な科学の発展を実現しました。なので、全体を部分として分離して単純化するプロセス自体はすばらしいと思います。ですけど、そろそろ違ったアプローチが必要です。僕らは大木を目指しているのか共生を目指すのか。他社が追随できないような強靭な製品を生み、コスト構造をギリギリまで削減するダウンサイジングにより多くの利益を株主に提供している今の時代。逆行するようですが、他と共存し製品や産業に多様性を生み雇用を拡大するアップサイジングにより共栄できる道を自然界から学ばないと行けません。そのためのしくみを編み出すことに科学を役立てないとだめですよね。たった1つの大木をつくるのにやっきになるのか、大きな恵みに満ちた森林を創るのか、新たな視点で「適者」っていうものを考えてみる必要がありそうです。PR
Category:社会 |
Date:2006/09/08