インド旅行 <プッタパルティー編>
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宗教や思想はたいてい既に亡くなっている聖人や偉人の遺産だ。
その偉人がもし現代に生きていたら。。。
(生きている内は偉人だなどと気づかないのかもしれないが。。。)
我々は、以前から世の中を騒がせている現代の聖人
サイババの住む町・プッタパルティーに向かった。
現代の聖人をこの目で確かめるために。。。
結論から言おう
実のところ、サイババをしっかり目前にしてきたが
彼が偉大な聖人なのかどうかは、僕らの目にはわからなかった。
ただ、この何もないプッタパルティーという町に強く魅了されたのも事実だ。
今日はこのプッタパルティーという町について詳しく語ろう。
プッタパルティーへ
バンガロールから車で2、3時間ほど北上した場所にある小さな町プッタパルティーには、アシュラムと呼ばれる広大なサイババ道場がある。
アシュラムは広く端から端まで直線で歩いても、20~30分ほどかかる。
一歩、足を踏み入れるとそこが別世界であることに次第に気づくだろう。
このアシュラム内では、写真を撮ることが許可されていない。
残念ながら、その様子は言葉で伝えるより方法がない。
アシュラム内にはさまざまな宗教の像が祭られているのだが
なかでも、入口の前にあるガネーシャ(象の頭を持ったヒンドゥー教の神)が印象的だ。
この像を眺めているだけでも、ここがどれだけ不思議な場所かがわかる。
地元のインド人、欧米人、アジア人が入れ替わり立ち代り礼拝にくる
地元のインド人は、やしの実をもってきて像の前で叩き割る
また、ある人は、ひざまづき、おでこが地面につくほどに礼拝を繰り返す
ある人は、両手を交差して両耳に触れ、足を交差して5回ほど屈伸をする
ある人は、ひたすら時計回りに像の周りをグルグル巡回する
ある人は、十字架をきるようなしぐさをし
日本人は、神妙に頭をたれて手を合わせる
これだけ文化や宗教、そして人種が異なる信者が
お互い気遣いあい良い意味で干渉することなく、
静かにただ一つの像に礼拝をしている
こんな光景があたりまえに目の前で展開されていることが信じられなかった
飽きずに1時間ほど眺めていたが、なんともいわれない光景だ。
当たり前さの中にある平和
だれもこれが不思議だとすら思わない「当たり前」さが漂っている。ともすると、見逃してしまいそうな当たり前さの中に
しごく当然のようにあるのが平和なのかもしれないね。
補足するが、サイババは決して新興宗教を広めようとしているわけではない
全ての宗教は同じ道へと続いている、お互いを攻撃するのではなく、自他を愛しなさい
という思想があるだけなのだ。
だから、仏教徒であっても、キリスト教徒であっても、ヒンドゥー教徒であっても
堂々と、サイババのアシュラムにありのまま足を踏み入れることが出来る。
サイババの信者であろうとなかろうと、
アシュラムで生活するための簡単な基本ルールさえ遵守すれば
それを咎められることすらない。
泊まっておきたいアシュラム内部の宿泊施設
もし、時間が許すのならアシュラム内部の宿泊施設に泊まってみるといい日本人にとっては、無料!と思っていいほどの値段で泊まれる
僕らもせっかくだから、ドメトリーと呼ばれる大部屋に宿泊することにした
男女別々で、周りはみず知らずの男どもばかり
簡素なベッドに、洗濯用のロープがはりめぐらされていて
長期滞在の信者も多いせいか、洗濯ものでいっぱいだ!
ところが、フッと気づくと男臭さが全くしない
汗臭さの漂う男子高生の部室を想像したら大間違い
欧米人独特の体臭もしない、見た目以上に驚くほど清潔なのだろう
それぞれが自主的に洗濯をし掃除をしている証拠だ
ドメトリーに戻ると、みな思い思いに本を読みふけったり静かに談笑したりしている。
驚くほど静かな環境に鳥や虫の鳴き声を聞きながら知らず知らずうたた寝をしてしまう。
外は暑いが、建物の中にいると心地よい乾いた風が吹き抜けてゆくのだ
遠くからギターの音とともにどこかの民族が歌い踊っている声が聞こえてくる
思わず自分が、インド旅行中だということも忘れてしまう。
ここはもっともインドらしくもあり
もっともインドからかけ離れた場所でもある。
最も静寂な朝
朝早くにもし目が覚めたなら、何も考えず散歩をしてみるといい行き交う人に、手を合わせて「サイラーム」といえば
にっこり笑って、手を合わせて返してくれるだろう。
ここでは、お互いが尊重すべき信仰対象であり神そのものなのだ。
誰がどこの民族でどんな思想をもっているかなど、たいした問題じゃない。
朝日がちょうど顔を出したころ、突然だだっぴろい荒野のようなところに出た
辺りはまだ少し肌寒く全てが静まりかえり、インドの強い朝日だけが存在を主張している
荒野の只中にただ一人、太陽に向かって瞑想にふけるお坊さんがいた
道端には静かにヨガをしている西洋人のおばさんがいた
その少し奥には、胸いっぱいに太陽を吸い込む青年がいた
そして私もそばにあった、岩の上にそっと腰を下ろす
インドに来てもっとも静かな瞬間だった。
ダルシャンへの参加
残念ながら、サイババは高齢のせいか、現在はインタビュールームに信者を招きいれ直接アドバイスをくれるようなことは行っていないようだ。
1日に2回あるダルシャンと呼ばれる礼拝に姿を現すのみである。
我々は、ただその姿を目にするためだけに、プッタパルティーに赴き
ひたすら「待つ」。。。。そして「待つ」。。。
とかく何かをすることでしか自分を表現できない僕ら現代人にとって
「何もしない」という選択をすることはとても難しい。
何かをするにしても、しないにしても精神が「理由」を求めるのだ
この「待つ」という行為はどこか特別だ
ただそこに現れるサイババを「待つ」という自発的な選択が
膨大な「何もしない」という瞑想の空間を呼び起こす。
ただひたすらに、「待つ」。。。
そのうち待つことすら忘れて、「待つ」。。。
そして、日が暮れ始めようとしかかるちょうどその頃
会場の電気がともり、歌が始まり、、、ゆっくりとサイババが登場する
信者はサイババと礼拝の歌に酔いしれる
ダルシャンはちょうど一時間ほど続く
次第に日は暮れ、会場の明かりが暖かい色を帯びだす
野外キャンプだったら、ビール片手にまったりと火を眺めだす時間帯だ^^
または、夏祭りの夕暮れ時。。。浴衣に合わせた下駄の音が心地よく心に響く時間帯
ここでカラスが鳴いたらきっと日本人はお家に帰りたくなったに違いない。
会場の熱気と、辺りのまったりとした風景にすっかり酔いしれる
毎日がまったりとした夏の日の野外キャンプ
毎日が夕暮れ時の夏祭りなのだ。
この心地よい風をあたりまえのように毎日体感できる場所っていったい。。。
ダルシャンが終わると、みな思い思いの方向へ散ってゆく
様々な民族がここでも行き交い
お互いに手を合わせて「サイラーム」と声をかけると
むこうもにっこり笑って手を合わせてくれる。
あまりにも多様な宗教と民族と人種を前に
僕らはみな、ただ1つの我をもった意識のなかに溶け込んでゆく
何もない満たされた何か
サイババは、きっと僕らに道を指し示してはくれないだろう。人生をひっくりかえすような衝撃も与えてはくれないだろう。
ただ、このアシュラムで同じ空気を吸って生活する中で
体や目で味わう愛情溢れる空間に自分が身を置いている幸せを実感する
僕ら未熟な人間は、現実の体験を通してしか気づけないことも多い。
こんな単純で当たり前に、人間が共存する空間が、今すぐにでも実現できる
この甘い空気を少しでも味わっていただけたらと願う。
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Category:一般/日記 |
Date:2009/02/10