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僕はたぶん怒っている、んだと思う。

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なんだか震災後、最近批判がとても多い。。。
以前、仕事で不具合の処理なんかを担当していたとき
一番厄介だと思ったのが横槍やらクレームだったんだよね。
問題の半分も把握できてない人がああでもないこうでもないっていうことは事態を返って悪くする。
僕には当然説明責任があったから、様々な説明をしなければならなかったけれど
それが余計に、問題の終息を遅らせて、事態を悪化させていることは明らかだった
会社的にも自分の立場的にもクレームに対する対応のインパクトが強すぎるあまり、
そこに優秀な人員も時間も労力も全てが余計に注がれてしまっていた。

みんなわかってるはずじゃないか。。。
なんで現場で血が流れるんだ?事件は現場で起きているんだ。

物事の真実を解明したり、自分の置かれている状況を細かく把握することは間違いじゃない
でも、自分の責任の範疇を超えた領域には、手をださないことだ
専門の仕事は現場の専門家にしかわからない。
現場の彼らがより迅速にストレスなく働くことができる環境を!
僕らの責任があるとすれば、その環境を創り壊さないようにすることじゃない???
日本中、みんなどうしちゃったんだろう。。。ちょっと怖いよ。。。
僕らがしている行為のほとんどは、事態が終息してからでもいいものばかりじゃないか。

震災が起きてから、僕も皆もどこか時間の感覚やら
因果関係の感覚が狂ってしまったようだ。。。

将来の復興計画についても、今と未来の問題をしっかり分けて考えないといけない。
今だからこそ、自分たちの住む環境の未来をしっかりイメージしないといけない
これはきっと皆が感じていることですよね?
TVでもよく将来の復興のありかたを語っているけど
すると、2言目に、「でも、現実的には不可能だよね。」という評論家的なコメントが続く。
これって、クレームと同じ、未来に対する現実の批判だと思う。

未来は未来で起こっている
未来のことをなぜ現実の問題で解決しようとするのだろう。。。
そこが、いつも歯がゆいんだ。

例えば、わかりやすいのが原子力のありかたの話だ
原子力は問題を抱えながらも、技術の進歩により
問題を乗り越えながら存続すべきだろうか?

原子力はコスト的にも技術的にも環境的にも多くの問題を抱えていて
原子力に対して、全て肯定的なイメージを持っている人は少ないと思う。
しかしながら、現実的には、それに替わるエネルギー源はないし
太陽エネルギーっていったって、原子力発電所一棟をになうのに
山手線沿線内を全部ソーラーパネルで埋めなきゃならない。
それくらいの技術しか今の地球にはないのが実情だ。。。
すると、原子力をなくすというのは、非常に非現実的な話でバカげている
という結論に帰結する。

でもさ、考えても見てよ。
「未来」に原子力エネルギーに替わる代替エネルギーがない!ってなぜ
「今」の僕らに言えるんだろう??
それって、未来のイメージを現実のイメージで曇らせているだけじゃない???

原子力を否定しているわけじゃないですよ?
僕らは将来「どうしたいのか?」っていう意志が抜けてるって言いたいんです。
だから、問題を未来の技術で乗り切ろう!っていう意志が示されたならそれでいいんです!

現実的かどうかじゃなくて、将来僕らはどうしたいんだろう??
その方針が先にありきじゃないかい!?
僕らはもっと夢を語り合ったほうがいい。。。

今の世の中は住みにくい。
全てを、マネーフローに置き換えたり、効率化といって数値化したりして
それが現実的で、スマートな結論だと妄想している。

これって、震災だけの話じゃなくて
「戦争をなくすのは不可能だ。」「飢餓を根絶するのは不可能だ。」
なんて言葉の裏にも隠れている。
僕らは、戦争をなくしたいのか?飢餓をなくすべきと思っているのか?
それとも、現実的という言葉に自分の意志を置き忘れてきたのか?
僕らの意志はどこいったの?
もちろん、原子力と戦争を比較するのはおかしな話だ。
でも、現実的という言葉に怠けて、どうしたいのかって未来の意志が
おざなりになってる、という意味で本質はなにも変わらないと思う。


今回の震災を受けて、マイケルサンデル教授の特別授業が開催された
そのなかで、海外の学生が言っていた言葉がとても印象的だった。

今回、日本で起きた震災の混乱の中、目立った略奪が一切起こっていない。
日本でのそういった出来事は、信じられない奇跡を見ているようだった。
救援物資すらちゃんと列を作って並んで待っている
この混乱の中で、水ペットボトル一人三本までというルールすら
当たり前のように秩序だって守られている。。。
こんなことは、アメリカでのトルネード災害の時にはありえなかったこと。
だからこそ、そこに未来のあるべき社会の姿を垣間見た気がしたし
その日本人の行為に“同じ人間”としての誇りを感じ、希望を見た気がした。。。と。
僕はそれを聞いて、胸の奥がぐっと熱くなった。

僕ら日本人が「当たり前」と思ってやっている行為の多くの部分が
海外では、「不可能なこと」「奇跡」として、目に焼き付いている。
実現が不可能だとされてきたコミュニティーがホントは実現可能なんだって
僕ら自身がその奇跡を体現している。
そのことの意味を僕らが一番わかっていないのかもしれない。

僕らの住んでいる現実の地球には様々な制約や習慣が染み付いている
多くの抱えきれない問題の前に、僕らちっぽけな人間は
その立ちはだかる壁の大きさに「非現実的」「実現不可能」っていう
恐怖に思わずとりつかれてしまう。

でも、震災後の僕らの行為そのものが、地球上の奇跡と映ったように
ある特定の地域のやコミュニティーや時間軸での不可能は、
別の条件の下では全く不可能ではないことを僕ら自身が示している。

僕らは現実の習慣や、現在の問題に縛られてはいけない。
未来を自由に空想し、未来を自由に泳げばいい。
なにかを批判するのではなく、しっかり今を生きよう。
自分の意志はどこにあるのだろう?
そして未来の夢を縛られることなく空想しよう。
現実の不可能は、未来の不可能とは限らない。
僕らの行為がすでに不可能な奇跡なのだから。
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Category: | Date:2011/04/17


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