震災後の今、思うこと
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なんだか、書きたいことはたくさんあるのだけどもなんだかすごく書きにくい。。。筆が重いね。震災のことを書いたブログもたくさんあって、いろんなニュースもたくさんあって、それを批判的に見ている人もいて、応援している人もいて、不安な人もいて、受け取り方は様々だ。
地震が発生した翌日、僕の職場で聞こえてきたのは「この状況だと何を売り出したらいいのかな?」という真剣な議論だった。この後に及んでも、売上の話なのかって!?でも、それ自体が良いとか悪いとかではないんだと思う。必要なものを供給する≒売れるものを売るとういことが震災後に最も必要とされているものを消費者に届けるという強い動機付けになっているのも事実だ。また、ニュースを見てると、ガソリンがなくなるとか、紙がなくなるとか、非常事態に備えるだとか色々な不安を煽って、おかげで店からは燃料と、ティッシュとガスボンベが消えた。そして今度は、買い占めは辞めましょう!といって必死な呼びかけが始まる。僕らの生活というのは、よくも悪くも消費活動の上に成り立っていて、それを支えるための煽りをうけやすいように色々なものが構成されている。それが社会を支え、都市化を進め、"便利な" 生活環境を生んだ。
震災を経験した。。。というと、被災地の方々に負い目を感じるけれど、僕ら関東に住んでいる人間にとって今回の地震は実体験を伴って被害をかすめた分だけとても身近に感じた災害だった。帰宅難民を経験し、計画停電という異常事態に日々の業務が追われたり。。。異常事態になると僕らの本性が滲み出てくるようにも感じた。消費社会も、売上の追求も、ニュースの扇動もこれまでもずっとやってきたこと。でも、自分の中で何か太いものが優先順位づけされた気がする。
自分の中で見えた好きな面もある
どうしたら被災地の方を救えるかの議論をするほうが心がワクワクした。それは僕がそういう方向に傾いた性根を持っているということだ。人が亡くなっているのに、消費活動がなくなるとGDPが下がるだとか、株価が下がった、円高が続いてる。。。少なくとも当時の僕には興味がわかなかった。誤解のないように、そういうものが悪いって思ってるわけではなく、そういう人も、社会を動かしていく上では必要だけれども、自分はそこに注力するほどの知見もモノも持たない人間だってことだと思う。
自分の中で見えた嫌な面もある
災害が起こってすぐに行動を起こせる人がいる。必死で愛を叫ぶ人もいる。行動をしないにしても、声を上げる人もいる。それに比べると自分っていうのはただ静観するだけの人間だ。きっと目の前で仮に人が死んでいても僕は静観するのだろう。。。そこに直ぐに行動ができる人への羨望も感じたし、自分に対する不甲斐なさも感じた。
とはいえ、行動しなければ意味が無いなんてよく言われているけども。行動をしない、何も起こさない、静観する美もきっとあるはずだ。行動派を羨む必要も、静観派を卑下する必要もない。僕らは自分自身が何者かをその行動・非行動のアクションのなかで決めている。今回の被災で自分は非力だと感じている多くの人にも、自身の選択の美しさを感じてほしい。何もできずにいる不甲斐ない自分を責めるより、他人を思いやり非力な自分を悲しむ心の美しさを謳おう。世界は僕らの心が映しだす鏡なんだ。
僕らがどう感じて、何を行動しようとも。。。世の中は僕らの意志の外側で次々に流れていく。災害ムードの中、助け合うことの大切さを学びつつあるさ中でも、リビアの戦争は起こるんだ。原発の事故も起こる。そのなかで問い続けている。。。僕は何者なんだろう。
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Category:働き方 |
Date:2011/03/20