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無駄話

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最近は景気感がよくないから無駄って言うと格好のニュースになる。こないだも仲間内でちょっと話題になってましたけど、年金すら払えないのに国が○○に大金を使うのは無駄だ!・・・なんてね。ほんと世の中には無駄が多すぎます!!


無駄の削減は僕らの暮らしを楽にするのか

でも今日は、もっと踏み込んで考えてみる。何をもって無駄と考えるか。。。こうなると事はそう単純じゃないはず。だって、最近のニュースはあまりに短絡的すぎやしないかと思いません?確かに無駄かもしんないけどさ。。。間違ってないと思うんですけど、それも1つの側面だという認識も必要じゃないかしら?

何がいいたいかって、お金を無駄に使うことが問題なんじゃない!と思うんですよ。

お金なんて、うまいこと散じればいい(と、僕は思う)。だから、無駄にお金を使うっていうのは何に対して無駄かって話なんですけど。結局、資本主義って人間を含めて全てのモノを資本として扱う。お金を儲けたいのならこの限りある資本の中のどこかから搾取しないといけない。ところが、、、ちょっと極端に考えてみると搾取しすぎて搾取する先がなくなってしまったら?結局お金儲けなんてできないんじゃないかなぁ?どう思います?


極端な富の偏りの中で

ところが、最近の米国なんかをみていると国民の1%が富の半分以上(90%以上と分析する人もいる)を保有していると言われる極端な富の集中がすでに起こってる。こうなると 1%の国民がもっとお金儲けしようとしても限界がある。国内でまかなえないから必然的に矛先は国外にも向くようになる。それにもいずれ限界が来る。あの竹を割ったような欧米の合理主義は僕も好きだ。しかし、そのやり方はときに合理的過ぎて短絡的になりがちだ。長期的な観点でみると、どこか自滅的ですらある。なににしろ、その辺うまいこと均衡を保たなければ、いずれはお金を搾取することすら出来なくなる。残念ながら世界はその限界点に近づきつつある。そんなことを考えていて、かつて日本が目指していた一億総中間層という構想は、実に利にかなっていたんじゃないかと、最近思ったりしたわけです。なんだか、逆転の発想みたい。未熟な資本主義の中で永続的に生活するための最も近しい回答のひとつのように思える。


十分な強度とアソビ

程度にもよりますけど無駄っていうのも資本の流動に一躍かっているんじゃないかという可能性にも少しは思考を向けてみてもいいんじゃないかと思うんですよ。ここでもう一度、同じ質問:何をもって無駄だと考えるのか。例えば、昔、米国のフォードの創始者は、自社の車を売るためにみずからの会社の労働者に高い賃金を払って車を購入できるだけの中流階級を作り出した、なんて話をどっかで聞いたことがある。この場合、実際の労働よりも割りの高い賃金を支払ったことになるわけですが・・・これは無駄だろうか?今は不景気で切迫したご時勢ですからフォードの時代とは違うかもしれない。なるべく無駄を省いてスリム化するというのにもうなずける。が、そこばかりに目をやって、やれ無駄だ、やれ削減だなんてやって、なんでも制度化、標準化、規制化を進めていくと、結局社会自体に「アソビ」がなくなってしまうんじゃないかと思うんですわ。地震がおきても建物が建っていられるのは、十分な強度とアソビがあるからだって、誰かが言ってた。国だって同じじゃないかね。

自滅的な合理主義であるのか永続的なアソビであるのか、そこを見据える必要がある。


問題は主義ではなく、それを使う人間にある

これは、お金に限った話じゃない。いろんな活動をする上で、法律とかルールとかセオリーなんて重要じゃない。それをどうやって僕らが「使うか」が重要じゃないかしら?談合だって別にやったっていい。それが悪いことだなんて誰が決めたんだろう?根回しが悪いことだなんて誰が決めたんだろう?逆に、合理化こそが正しい道だなんて誰が言ったんだ?問題は、その「やり方」がまずいってことじゃないですかね?何でもルールや型にはめて安心している。無駄のありなしばかりにとらわれて、無駄と名のつくものを削減するだけで安心してる。米国式に習っているだけで安心している。社会を作るのはルールじゃなくて、それを使う「人」なんだよね?

常に公平に、時に短期的にそして長期的な視点で、嫉妬でなく、癒着でなく、慣習やルールにこだわらず、何が社会として「自然な」状態なのかってことに話題を移していく必要があるんじゃないか。。。



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Category: | Date:2007/06/23


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