目に見えない価値を価値化すること
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目に見えない価値をどうやったら目に見えるように評価できるんだろう。
そもそも、目に見えないんだから、目に見えないまんまで
しようがないといえば、しようがない。
人の暮らしを楽にする夢のツール
僕はパソコンが人の暮らしを楽にするツールだってずっと思っていた。人間には到底できないような途方も無い作業を一瞬にして終わらしてしまう
夢のような力がコンピューターにはある。
そのコンピューターを扱う仕事こそなんてスバラシイんだろう!
今まで、8時間で10の作業をこなしていたスタッフが
僕の作ったシステムで6時間で終わらせることができるようになったら
残りの時間は有意義に遊んでいてもいいし
より建設的で健全な活動にあてることができるじゃないか!
その余剰を生み出せるのは何を隠そうパソコンではなかったか!?
余剰をゆるさない風潮
ところが、世の中そんなに甘くはない。8時間かかっていた作業が6時間で終わったのならば
残りの2時間で別の業務をこなさなくてはならなくなる。。。
次から次へと新しい仕事は吐き捨てるほどにあり
ただ歯車のように余分な時間なく稼働させることが効率化だって
どこかみんな錯覚してはいないだろうか。。。
結局、余剰の2時間はなくなり、8時間でこなしていた10の作業の方が
12になったり、13になったりするだけなのだ。。。
こなしている作業が増えたからといって、スタッフの給料が増えるわけでもなく
余裕ができるかわりに、こなす作業の数が増えたぶん、
見えない責任やら作業負担が返って増え続けている。
僕が作ったシステムは結局誰のためになっているんだろう?
こなしている仕事量やそこに生まれる生産物が適正にスタッフの成果として評価されないのだとしたら
僕がどれだけ良い援助システムを作ったとしても
それがどれだけ作業効率を向上させようとも
スタッフは常に100%の労働をし続けることが強いられることに変わりはない。
がんばった分だけ楽ができたり、がんばった分だけ報酬がもらえる、
というのはどうやら今の社会では幻想なんじゃないかって、
僕には思えてならない。
なんだか産業革命当時の機械とダブる
機械の導入によって人の暮らしは楽になる。。。と言われ続けていた
でも、結局技術は飛躍的に向上し、ロボットが製品を作るようになり
手紙がFAXになり、FAXがメールになり、、、仕事時間が
どんどん短縮され、超効率化されても、僕らの仕事にたいする負担は、
産業革命のころとそう変わらいんじゃないか?という気すらする。。。
確かに、平均的な労働時間を調べると長期的には減少しているのは確かだ。
ただ、年代や業種による仕事格差は年々顕著になりつつあるようだし
サービス残業や、非正社員の雇用により数値が薄められているとも言われる
そもそも、技術革新の度合いに対して、減少率が果たして適正なのかは誰も語らない
精神障害や過労死の労災認定される人数はなぜか年々増え続けている
"利益があればこその社会貢献"のワナ
色んなものが資本という数値に置き換えられている。別にそれは単なる手法だから、それ自体が悪いことだとは思わない。
欠陥は常にそれを使う人間にあるんだと思う。
数値化することが間違いでないならば、きっとどこかに
目に見えない数値化できていない部分があるはずじゃないか。
「利益があるからこそ、社会貢献ができる。」
これはまっとうな経営者の意見であると同時に
利益がなければ何もしない、という危うい思想でもありうる。
そこに見えない公益があることが僕らにはまだわからない。
スタッフの頑張りが単なる作業時間とでしか計られず
熟練することやシステム化することによる余剰や報酬については
目に見えない価値としてどこかに消えてしまっている。
それを適正に計る指標を僕らはまだ知らないのだ。
僕らの社会倫理や、ボランティア、献身的な努力
想い、文化、愛情。。。こういったものが適正に判断される日が
いつの日かくるんだろうか?
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Category:働き方 |
Date:2011/07/15